四つの心配事
2000年前以上の中国の教えが現代にも通用するのは、
基本的に人間の行為と思考法はあまり変化がないということだろうか。
荘子という偉い哲学者は出世欲が無い為に隠遁生活をしていたらしい。
そして竹藪の向こうから世の中に文句を言い続けたのである。
俗にいう、嫌われ者の頑固親父という事である。
昔の町内会に必ずこのような親父が一人いた。
学識はあるのに時代が合わず、世情の文句ばかりを言い歩く親父である。
しかし正論を唱えるので誰も反論はない。
痛いところを指摘されて怒る人間もいるが「あいつだけは関わるな」と周りから言われてしまう。
警察も学校の先生も坊さんも果ては任狭道の人達でさえ、道で会えば頭を下げて通り過ぎる。
難事の時の神頼み的な頼れる存在なのである。
特に冠婚葬祭などの祭事の時には必要不可欠な謎の大先生なのである。
荘子の思想は無為自然を基本とし人為を忌み嫌うものである。
荘子は徹頭徹尾世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢になっている。
価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い、日常生活における有用性等の意味や意義に対して批判的である。
荘子漁夫篇第三十一(人間の「八つの欠点」仕事の「四つの心配事」)
「八つの欠点」とは、
自分の仕事でもないのにそれを自分の仕事にする、これをなんでも屋という。
ふりかえりもされないのに無理に進言する、これを口達者という。
あいての心を伺いながらそれに迎合した話しかたをする、これを諂(へつらい)いという。
正しいかどうかおかまいなく調子を合わせて話し込む、これをおもねりという。
すぐに他人の悪事をいいたてる、これを悪口という。
人の交際をひきさき親しい仲をひき離す、これを賊害(そこない)という。
褒めあげたうえでだまして人をおとしいれる、これを邪悪(よこしま)という。
善いか悪いかにおかまいなく、両方とも気にいったようにうけいれながら、
自分の望むところだけを抜きとって利用する、これを陰険(いんけん)という。
この八つの欠点があると、そとでは他人を混乱させ、内はわが身をだめにすることになって、
有徳の君子からは友だちにされず、聡明な君主からは臣下にされないものだ。
さて「四つの心配事」とは、
何かにつけて大きな仕事に手をつけ、ふつうのきまつたやり方を変更して、
それで功名をあげようとねらっている、これを強つくばりという。
考えることもかってなら仕事もかって、それで他人を侵害して自分の利益をはかる、これを貪欲という。
過失がわかっても改めようとせず、人に諌められるといっそうひどいことをする、これを臍(へそ)まがりという。
自分に同調する人をよしと認めるが、同調しないとたとえよい意見でもよいとは認めない、これを一人よがりという。
八つの欠点を除く事ができて、四つの心配事が行わないでおれるなら、そこで始めて真実を教えられるのだ。
「真実とは純粋誠実の極みだよ」純粋でなく誠実でなければ、他人を感動させることはできない。
だから無理に泣き叫ぶものは、つらそうであっても悲しみは伝わらず、むりに怒る者は、きびしくあっても威力がなく、
むりに親しむ者は、にこにこしていてもなごやかでない。
真実の泣き叫びは、声をたてなくても悲しみが伝わり、真実の怒りはきびしくなくても威力があり。
真実の親しみはにこにこしなくてもなごやかなものだ。
真実が内にたくわえられていると、微妙な働きが外にあらわれてくる、真実が貴重なのはそのためだよ。
読むたびに心が洗われる想いがする。溜飲がさがるのである。
正しくその通りと大声で叫びたくなるのである。
荘子を目指して学問に励み、世間から嫌われものになっても、正論を吐き続けたいものである。