2つの心




皆様は数学者岡潔(おかきよし)をご存じですか?
本日は岡潔の「2つの心」を引用したいと思います。

第1の心のわかり方はことごとく意識を通す。
その内容はすべて言葉で云える。それでこれを「有(う」」という。
これに反して、第2の心のわかり方は、決して意識を通さない。
またその内容は、決して言葉では書けない。だからこれを「無(む)」という。
しかしながら、無が根底にあるから、有が有り得るのである。
東洋人はこれをずっと知っていた。日本人も少なくとも明治までは知っていた。
そしてよくわかる人は、そのことが非常によくわかったのである。

何でもすべて本当に大切な部分は無である。
だから日本本来のよさというのは無である。
ギリシャ人や欧米人は有しか知らない。無のあることを知らない。
戦後すっかりアメリカやソビエトに同調してしまって、
言葉で云えないものはないと思っている。

戦後に生まれた人達には、学校も家庭も社会も、「有」ばかり教えた。
「無」を教えなかった。ところが日本というのは、一口に云えば無である。
だから戦後に生まれた人には、日本というものがわからなくなってしまった。
つまり、日本を知らないのである。それではもはや、
日本人ではないと云ってもよい。
それで世代の断層というものが出来てしまった。

本来無一物(ほんらいむいちもつ)は、禅宗の教義や哲学において
用いられる言葉です。この言葉は、仏教の教えに基づいて、本来的には
何ものも存在しないという意味を持ちます。具体的な物質や概念に執着せず、
心を空にして本来の自然な状態に戻ることを目指す教義です。

この禅語は、私たちが物事に執着し、欲望や妄念に囚われていることを
思い起こさせ、解脱や悟りを求める修行者にとって重要な教えとなっています。
本来無一物の言葉は、深い哲学的意味を持ち、
禅の修行や瞑想において考えることができるテーマです。

だがそれでも日本民族だから、日本人の頭頂葉を持って生まれてきている。
これは健在なようである。だから、何となくそれでいけないものを感じはする。
しかし、言葉で云えるものが大事なものだと思っている。
それが根本的な間違いである。
言葉で云えるものなどに、それほど大事なものはない。

第2の心の世界を「無」と云い、第1の心の世界を「有」と云う。
「真、善、美」はすべてその源を無の世界に発して、有の世界へ流れこんでいる。
有の世界に入って後、言葉で云えるのである。

ここに岡先生独特の「意識を通す」という表現が登場してきました。
これは医学でいっている「意識がなくなる」という意味の
「意識」とは違います。医学で使う「意識」とは大体「いのち」と
同義語ですが、岡がここで使っている「意識」とは心理学で
使っているもので、「意識的」とか「意識に訴える」とかいう意味です。

しかし、日本では江戸時代に随分と経済や文化が発達しましたが、
このようなやり方は「はしたない」「あさましい」として嫌う傾向に
あったのではないでしょうか。このように日本人は概して「意識に訴える」
ということを嫌います。日本文化が西洋人にわかりにくいのは、
この「意識」のとらえ方に違いがあるからではないでしょうか。

「日本民族」という言葉が出てきました。
皆さんは日本の歴史は2000年ぐらいか、長くても縄文の1万年くらいに
思っている人があるかも知れませんが、岡の考えではスケールが大分違っていて、
少なくとも30万年はあるということです。

文献上でそれが岡にわかったのは、中国を代表する思想家である
胡蘭成(こらんせい)と知り合ってからです。
岡にいわせれば中国人と日本人はルーツをたどればもとは
同じだということですが、中国の伝説では正確な文献として
次のように書かれているということです。

「天皇氏時代が12万年、地皇氏時代が9万年、人皇氏時代が7万年、
中国古代の伏犠(ふっき)、神農(しんのう)、黄帝(こうてい)以降が1万年。」

これを全て足すと29万年となりますが、岡は既にそれ以前に、
日本民族の歴史は30万年ぐらいではなかろうかと、
確信を持って想像していたということです。

岡の直観たるや、中国の伝説たるや、人類史の奇跡という外ありませんね。
このようなことは、日本人の誰も知らないのではないかと思います。

「水の中の石」
ところが、日本は終戦後、特にアメリカの真似をして、
そのために深い心というもののあることを全く忘れてしまっている。
それで、みれば非常に憂うべき日本の現状が出てきている。
特に教育の面においてそれがはなはだしい。心がよく働いていない。

浅い心を第1の心、深い心を第2の心ということにしますと、
一切のものは、きれいな小川のせせらぎに石がつかっている、
それに陽が当っている、そうします。
そうすると、水の中の石は非常にきれいに見える。
ところが、取り出して乾かしてみると、極つまらない石です。

人生のこと一切は、この小川のせせらぎにつかっている
石のようなものです。その石が第1の心の内容、その小川のせせらぎが
第2の心の働き。そんなふうなんです。そういうものだということを
今の日本人は全く知らない。だいたいそんなふうです。

「アメリカの真似」という言葉が出てきました。
心の構造からいうと、西洋は概して大脳前頭葉を使う第1の心(自我)の
文明圏ですが、アメリカはその中でも欧州に比べて一段浅い文明なのです。
科学精神の基本である大脳前頭葉よりも、記憶の量と処理速度という
能率や効率を求める大脳側頭葉を重視する文明だからです。

一方、日本は東洋の第2の心の文明圏ですが、西洋の得意とする前頭葉の
発達はまだ大分遅れていて、そのコンプレックスのために西洋の表面的な
真似に終始して、日本本来の第2の心を忘れ去ってきた訳ですが、
20世紀の歴史が示すように、
前頭葉の第1の心だけではいずれ文明は行き詰まります。
人と人、人と自然とが対立した世界観の中で、いくら精密に頭を働かせても
問題が解決するどころか、益々問題が複雑化するばかりですから。

だから本来、第2の心の世界観を持つ日本人が、下手は下手なりに
大脳前頭葉を使って、新しい世界観(政治、経済、学問、芸術)を
創造していかなければならない時点に今はきているのです。

「水の中の石」。我々の日本文明というものは、ここで岡がいうように、
きれいなせせらぎにつかっている美しい石である。
明治以後はこの石を水の中から取り出してカサカサに乾燥させ、
戦後はアメリカによってその石の表面に泥まで塗られて今日に及んだ訳です。
岡は終生、その泥で塗りかためられた石を「本当は美しいんだ、美しいんだ!」
と訴えつづけてきたのです。

私のブログ「恩学」で伝えているのはまさに「水の中の石」です。
今一度日本人の心を清らかな水に戻したいからです。
何もかもアメリカ流のデコラティブにデフォルメされた世界に
警鐘を鳴らしたいのです。もうアメリカに夢は無いのです。