人間の外郭




他人の人生に興味はありますか?
上辺だけのお付き合いでは無くて
内面まで入り込むことは失礼に当たりませんか?
誰にでも隠したい個人史はありませんか?

親しくお付き合いした人から
あなたは私のことを一切知らない。
外郭ばかりのお付き合いで内郭には興味が無いと感じる。

そういえば名前と肩書きと仕事の内容は知っていたが、
個人的なことは失礼になると思って聞いていなかった。

その際に、多分あなたは、奥様のことも、子供のことも
全く知らないと思うわと言われました。
そんなことはないと反論したが心に引っかかる部分があった。

家族も私のことを父親と分かっているが、
今私が考えていることや、何をやっているかは知らない。
それぞれの現状を家族同士であまり真剣に
話し合ったことがないのでお互いの事は知らない。

多くの父親は厳しい社会の中で生きていくために、
家族の前では作られた父親像を演じている。
弱さを見せないためにも虚勢を張っている場合が多い。
友人に関しても外郭だけの自分をさらけ出すだけである。
見栄と虚栄と作られた姿で場を盛り上げる。

その人の外郭(体裁)だけでお付き合いをして
内郭(本音)までは知ろうとしないで済ましている。
果たして本当にそれで良いのだろうか?

私達は、日頃からあらゆることを自らの物差しで計り、
それに適わないときは、嫌いだ、不満だ、面白くないなど、
そこから生み出される悩みや苦しみの迷いの中で、
生活を送っているのではないでしょうか。

その生き方が、あらゆるものを正しく見ることが出来ない。
まるで洞窟の中で生きていることと同じなのです。

仏教では、この悩み、苦しみ、迷う人間の生き方を、
無明の闇の大海をさまよう船にたとえ、
仏さま(阿弥陀仏)の人知を超えた究極の智慧を「光」と現し、
無明の闇を破る「恵日」と説いています。

私達は、求めて仏教を聞き、「恵日」を実感した
生き方をしたいと思います。

誰も見ていないところで、誰にも知られないところで、
それでも変わらずに努力を重ねることができるのか、
人の真価とはそういうところに現れるのかもしれません。
「神は細部に宿る」なんていう言葉もあります。

だから、他人からどう思われるかが、
自分の価値だと思って表面ばかり取り繕っているようでは、
あるいは物事を考えるときに効率ばかりを優先してしまうと、
それもまた裏側で手を抜くという
結果に結びついてしまいかねません。

比較することをやめて、表・裏ともに愚直なまでに
平等に丁寧に行うことが、平凡のようでいて
もっとも地に足の着いた生き方のように思えます。
「偉大」とは、見上げた上空にあるのではなく、
案外足元にあるものなのかもしれませんね。

禅に『宝鏡三昧』という経に次のような一文があります。
「潜行密用は、愚の如く魯の如し。
ただよく相続するを、主中の主と名づく。」

現代語に訳すと、だいたい次のような意味となります。
「潜水艦のように人から見られないところでの行い、
誰にも知られることのない行い、
そういった行いを愚直に行っていく。ずっと続けていく。
そうした生き方のなかにこそ、自分の人生を自分で生きるといった、
真に胸を張れる主体的な生き方が現れてくる」

唯一、自分だけが自分の人生の主人公でいられる、
というより、自分しか主人公はいないのです。
そんな主人公である自分をないがしろにして、
誰かの考えに依存して生きて、
どうして「偉大」な人であることができるでしょう。

人からどう思われようと、自分の信じる生き方を貫いて、
自分の価値は自分の行動のなかにしか存在しないんだと、
他人が決められるものじゃないんだと自分を奮い立たせて、
そうやって生きていくしか、自分の人生の主人公で
あり続ける方法はありません。

誰かの価値観で生きたなら、一体、自分は何者なのか?
自問自答を繰り返さなければならない。
誰かの理想に合わせる必要など無いのです。
自分の理想に向かって邁進すればいいのです。

誰かの評価なんかに惑わされず、自分で自分を磨き続ければ、
それでいいのです。

「人から偉大だと思われることが
「偉大な大工」なのではなくて、
自分のやるべきことに手を抜かないで
最後までやり遂げるのが「偉大な大工」なのですから。

「偉大な大工は、誰も見ないからといって、
キャビネットの裏側にひどい木材を使ったりはしない」
目立つところだけに一生懸命になるのではなく、
自らの仕事を細部に至るまで完遂する。
偉大な大工っていうのはそういうものだ。
アップル創設者スティーブジョブスの言葉です。

「偉大な父親は家族に対して手を抜かない」
世の中の父親諸君、ともに反省しよう。