知識と行動




チャットGPTから得る情報は知識に値するか?
メタバース内で行われるビジネスは行動に値するか?
ディトレードでの売り買いは「知識と行動」に結び付くのか?

我々は「温故知新」で古きを知っても、
それを置き換えて新しいものは作れないのではないか。
AIに知識を乗っ取られても最新の学びを
取得することは可能なのか?

日本の伝統文化「歌舞伎や能楽」で行われる、
教育と修行はこのままの形で継承されるのだろうか?
技能がデーター化されて最新ロボットにプログラミングされて
古典と近未来が融合される日が来るのだろうか?

新人類が誕生しても「思考方法」は変わらないで欲しい。
それは人間が身体と心を磨き切磋琢磨して
初めて得られるものだからです。

中国の代表的学問方法の「朱子学と陽明学」は、
現代でも活かすことは出来るのか!

いわゆる朱子学の「知先行後」は学びを優先して
科挙に受かり役人になってから行動に移せと説いている。
王陽明の「知行合一」は知識と行動が伴わなければ
意味をなさないと言っている。
これは朱子学に対する反論で科挙を批判するものである。

朱子学(しゅしがく)とは、
南宋の朱熹(1130年-1200年)によって
構築された儒教の新しい学問体系。
日本で使われる用語であり、
中国では朱熹がみずからの先駆者と位置づけた
北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・
程朱学派と呼ばれる。
また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、
「道学」とも呼ばれる。

陽明学(ようめいがく)は、中国の明のときに
王陽明がおこした学問である。
陽明学の命題のひとつ。知(知ること)と行(行うこと)は
同じ心の良知(人間に先天的に備わっている
善悪是非の判断能力)から発する作用であり、
分離不可能であるとする考え。

論語の為政第二にある「先ず其の言を行い、
而して後にこれに従う」が元になっている。

王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと
同じであることを主張し、知っている以上は
必ず行いにあらわれると述べた。

「知行合一」(ちこうごういつ)
真の知行とは「好き色を好むが如く、悪臭を憎むが如し」と説く。
例えば、好きな色というものはそれを見た(知った)瞬間に
好んでいるのであり、色を見て(知って)から好きになろうと
判断するわけではないのである。

朱熹の学(朱子学)が万物の理を極めてから実践に向かう
「知先行後」であることを批判して主張した。

これら二つの学問が江戸時代初期の陽明学者である中江藤樹や
幕末の頃の陽明学者や維新の志士たちに大きな影響を与えた。

吉田松陰も特攻隊も三島由紀夫もこの「知行合一」とともに
最終的には自死を選択した。
若者たちへ指導者の立場で教育した結果の回答が自死であった。
時代の学問は時には残虐で非情である。

この「知行合一」と同じように「葉隠」も志高き人たちに影響を与えた。
「武士とは死ぬこととみつけたり」これが日本人の精神文化です。

「葉隠」は冒頭に、「この書は必ず全部焼き捨てよと言われた」
(堅く火中仕るべき由、返す返すも御申し候なり)と書かれています。

これは藩士の失態や衆道をめぐるいざこざが、
山本常朝の手厳しいコメント付きで記されていたためのようです。

「葉隠」(はがくれ)より
人は死ぬよりは生きる方がいい。死にたくない、
生きたいと思えば思うほど行動が臆病になり、
結果的に恥をかいて切腹に追い込まれることになる。
むしろ、死のうと思い切ってしまえば腹が据わり、
切羽詰まった場にあっても適切な行動がとれる。

「神風特攻隊」に代表される出陣学徒兵の手記
「きけわだつみのこえ」を読むと、決して「思考停止」せず、
悩み苦しみながらも諦観して死地に赴いたのではないかと感じられます。
しかし、マインドコントロールされて「死を本望」と信じ込んでいた
兵士もいたことでしょう。

新しく教育関連の「塾」を山梨県で開校して世直しをしていきます。
私も指導者としての立場で現地へ頻繁に行くことになります。
そこを拠点として全国へネットワークをつなぐ予定です。
古民家と農地の提供があればすぐにでも移住するつもりです。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば、人は動かじ」
山本五十六

塾生と共に農地を耕し、頭脳を耕し、技術を耕していきます。
その中で私はこれから「晴耕雨読」の人生へも挑戦します。
天下一の富士山のふもとで「知識と行動」を共に行う「知行合一」です。

人はどれだけ学んでも基本は「愛」である。
愛なくして家族を、地域社会を、国家を守ることは出来ません。
子供達は「未来から来た留学生」です。
彼らの無関心の先には愛が溢れています。