枠組みからの脱出




日本人は世界から見ると清潔で勤勉で働き者と映ります。
しかし多くの外国人は日本人と友達になりにくいと言います。
それは、日本人は形通りの生活を繰り返すだけで本音の自分を出さないからです。
何がやりたいのか、何を仕事としたいのか、何を目的に生きていくのかが
全くわからない。だから友達になっても楽しくないと思われるのです。

例えば音楽学校やバレイ学校から世界的なコンテストで入賞した人が、
海外へ留学をして最初は優秀なので注目されるが1年後から立場が逆転するのです。
それは、基礎はできているが楽しく演奏やバレイをしていないのが原因である。
好きな気持ちを表に出さず、教師から言われた通りに発表しているだけで、
音楽やバレイを心から楽しんでいないのが指摘されるのです。

私が初めて中国で雑技団や演奏家を見た時、とても技術はあるのだが、笑顔が全く
なかったことに違和感を覚えました。強制的に指導を受けて技術力はあるのだが表現力に
欠けるのが気になりました。共産圏だから仕方ないのかと思いながら悲しい気分になったのは事実です。

これと同じように日本人も世界では一緒に見られているのです。

学校はその人の個性は認めずに技術優先で感情表現の教育が後になるからです。
マニュアル的な作り笑いは嫌いだが、もっと感情をあらわす生の表情も、早くから
訓練すべきである。好きなことを楽しみながらすると笑顔は自然に生まれるのです。
自分の心がワクワクドキドキしないことに全力を投球する必要は無いのです。
そこから感動は絶対に生まれません。

勿論、死に物狂いで金メダルを獲得しようとしているアスリートの皆さんには
失礼かも知れませんが、目くじら立てて鬼の形相でプレーするは如何なものかと
思うのです。そして最近では海外のアスリートの真似なのか、スタートする前に
観客を煽(あお)り立てる行為は日本人には合わない気もするのです。

我々の世代では人前で「喜怒哀楽」の表情を出すのは下品とされて無表情が
奨励された時代です。これはあらゆる「道」の教えから来るものだと思うのです。
茶道、華道、剣道、柔道、能楽、雅楽などの教えを受ける時に笑いは禁物である。
そのままの行儀作法の習慣が残っているからだと思います。
でも、私はやはり何事にも動じない凛々しい日本人の顔が大好きです。

枠組みからの脱出は、今ある常識という枠から出ていくことです。
世の中の伝統文化は古いままを継承しているものがほとんどです。
習い事でも古い教科書で古い形のままを教えることが多いのです。
本来は古い形を残しながら新しい形を取り込まなければならないのです。
それが伝統後継者である弟子の役目です。

戦後の常識はアメリカが作ったもので純然たる日本製ではないのです。
強い日本を否定して弱い日本にするために作られたルールです。
日本の教育から「地理と歴史と修身」を取り除き腑抜けにしたのです。
近頃では学校の教師も平和ボケしていて歴史の真実を教えることが無くなりました。
日本人の我々が、平和外交を中心に、世界の混乱において何をしたいのか、
海外に向けて明確に主張をすべき時なのです。

理想的な教師のスタイルとして、
①凡庸な教師はただしゃべる。
➁良い教師は説明する。
③すぐれた教師は自らやってみせる。
④偉大な教師は心に火をつける。
と言われています。

理想的なリーダーのスタイルとして、
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」
山本五十六の名言である。

いつの時代にも子供達には真実を教えるべきです。
自分たちの判断でこの国をどう作るのかを考えてほしいのです。
強い国が存在して経済活動があるのです。そして幸福が存在するのです。

60年代70年代は大学生が先頭に立って政治改革のデモ行進をやり続けていました。
機動隊とぶつかり合いながら安保反対を訴え続けたのです。
私も大学生の時に新宿西口でデモ隊に参加したのです。
5月には毎年春闘といって労働者も待遇改善のデモ行進をしていたのです。
そして女性たちも男女平等を訴えてエプロン姿でデモ行進をしていたのです。

あの頃は日本人が日本の国を良くする運動が盛んに行われていました。
今は日本中「見ない、聞かない、言わない」の3匹の猿になっているのです。
私は不可能という枠組みから何度も脱出を試みました。
失敗も挫折も傷つきも山ほど経験をしました。そのお陰でオピニオンリーダーとして
少しだけ人より前に進むことが出来たのです。

息を殺して嵐の通り過ぎるのを待っても何も起こりません。
しっかりと見て、はっきりと聞いて、大声あげて立ち上がりましょう。

あとからくる者のために枠組みから脱出して素晴らしい未来を残しましょう。

坂村真民「あとからくる者のために」

あとからくる者のために
あとからくる者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ

あとからくる者のために
しんみんよお前は
詩を書いておくのだ
あとからくる者のために
山を川を海を
きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために
みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々(それぞれ)自分で出来る何かをしてゆくのだ

社会の人々への「それぞれが少し我慢をして、少し苦労をして、自分にできる
なにかをしてゆこう」という真民の叫びかけがより届く詩だと思います。
私たちもこのような気持ちを持って生きて行きましょう。