壺中日月長




1972年22歳の時に横浜からロシア船に乗って英国に向かいました。
2日目の朝ハバロスクについてシベリア鉄道に乗り換えました。
驚いたのはソ連の土が赤かったことです。やはり共産圏の国の土は赤いと
妙に感心したのです。(笑い)

シベリア鉄道の中では車掌がとても親切でロシアンティーを頼んでも無いのに
何度もご馳走してくれたのです。しかしそれには裏があったのでした。
車掌は私の履いているジーパンとセイコウの時計を狙っていたのです。

たびたび部屋に来ては(部屋付きの座席)俺にプレゼントしてくれとせがむのでした。
流石に面倒になりロシアの交通局の女性に頼んで断りました。
その当時海外からの観光客には政府の交通局のスタッフが付き添う決まりでした。
外国の旅行者が怪しげな行動をしないかの見張り役なのです。

モスクワについてもレーニングラードについてもジーパンとセイコウの時計は、
注目の的でホテルを出るたびに若者たちに追いかけ回されました。
それを振り切りホテルに戻ろうとしたら、違う若者がホテルの中の売店でウォッカを
買ってきてくれとせがんできました。ホテルの免税店では安価なウォッカが手に入るからです。

共産主義の貧しさが気になったエピソードです。

レーニングラードからスエーデン経由でオランダに行き(列車移動)
そこから船でロンドンのハリウィッチという港町に到着したのでした。
その頃のスエーデンはフリーセックスの国、オランダはチューリップの国という
イメージでした。両国とも通り過ぎるだけですが、その都度出入国の手続きは
ありました。乗り換えの時間を利用して街にも出かけました。

そして最大の難所です。いよいよ英国の入国審査を受ける段階にきました。
審査官の前に立ちいくつか質問を受けたのですが「入国拒否」というスタンプが
押される寸前でした。このままユータウンして日本へ戻れと言っているのです。
冗談じゃ無いこちらは全財産を払い何日もかけてやって来たのに、何があっても
帰るわけにはいきません。

そこで万が一の時を想定して持ってきた尺八を吹いたのです。
「私は日本の古典楽器奏者で憧れの英国へ勉強しにきたのだ」と言ったら、
後ろに並んでいる人達が入れろ!入れろと声を上げてくれたのです。
そこで係官も仕方なく1ヶ月のビザを発行してくれました。
「備えあれば憂いなし」尺八に助けられたのです。

この後の珍道中も知りたいとこでしょうが、機会がある時にお話をしたいと思います。
たった1ヶ月のビザで英国に1年7ヶ月も滞在したのです。
勿論、不法滞在ではなく正式に学生ビザを取って滞在したのです。

楽しいことには時間を忘れます。でもそんな時はまたたくまに過ぎますね。
私の英国滞在も楽しくて仕方ありませんでした。
音楽づけの毎日で何を見ても何を聞いても心が震える感動がありました。
大変だったのは3か月ごとのビザの延長です。学生ビザだったので修学の成果と滞在の
ための銀行口座にいくら残っているかを毎回聞かれることでした。

アルバイト先の日本レストランの料理長が、私をとても気に入ってくれて、
英国で働く気があるのなら正式に就労ビザを取るよと言ってくれたのですが、
そうすると私の夢をここで諦めることになるので丁重に断りました。

たった1年7ヶ月の滞在でしたが帰国すると一瞬の出来事のように感じられました。

中国の諺に「壺中(こちゅう)」は悠久の時が流れる別天地で、
「日月長し」とは、時間の過ぎるのがゆっくりだという意味ですが、
ここでは時間的制約や束縛がないことと捉えます。
つまり、時間を超越した安らぎの世界のたとえです。
 
これは次のような話に由来します。後漢の時代、汝南(じょなん=河南省)の
費長房(ひちょうぼう)という役人が、市中で薬を売る一人の老人に身を変えた
仙人にいざなわれて壺の中に入りました。
すると、そこには別天地が広がっており、立派な宮殿の中で美味しいお酒やごちそうの
歓待を受けます。やがて費長房はそこで仙道の修行を授けられることになり、
十日ほど経ったと思い現実世界に帰ってみるとなんと十数年も経っていたというのです。

(『後漢書』方術・費長房伝)。

この話は「浦島太郎」の原典です。

狭いお茶室の中の清らかで静かな時間や、小さな草庵に隠棲する道人の束縛のない
悠々自適の境地とみることもできますが、心が静まっていれば、どこにいても同じ。
一瞬の中に、永遠の心の安らぎを見出しましょう。

出典:『虚堂録』巻八

寿崇節の上堂。至人化を垂れて、形儀有ることを示す。満月の奇姿を開き、
山天の瑞相を蘊(つ)む。会すや。主丈を卓して、ただ池上の蟠桃の熟するを
知って、覚えず、壺中日月の長きことを。

人生は一つの物語では無く幾つもの物語が集まってできているのです。
我を忘れるぐらいの一瞬の出来事に時間を失うこともあります。
何かに気を取られて壺中に迷い込むこともあるかも知れませんね。
その時にはその環境を存分に楽しむことが重要だと思います。
但し、過ぎ去った数年の歳月は世の中の大きな変化にきっと驚くと思います。