迷路の先に




社会という囲いの中で正しい行いをした人が偉いのではなく、
社会という囲いを抜け出して正しい行いをした人が偉いのである。

「正直ものの頭(こうべ)に神宿る」は教育の中だけで通じるもので、
本当の正直ものが大成した話は聞いた事がない。

嘘つきは泥棒の始まりと言うけれど、
政治家も先生も親たちも嘘をつくから泥棒なのだ!
しかし嘘も方便という言葉で救われている。

明けない夜はないというが、
夜が長すぎると迷路の深みに飲み込まれてしまう。

我々は生きていく中で多くの言葉に惑わされる。
幼児期に教師から聞いた言葉、教科書に書かれた文字が頭に刷り込まれる。
常識の怖さは疑う事なくすべて信じてしまう事である。
目の前の出来事の真偽も調べずに疑いもなく信じてしまうのである。

戦争の報道もどちらかの国を正義として伝えたら片方の国は悪となるのです。
友人から紹介された人が善人だと言われれば疑うことなく付き合うのです。
母親が自転車に子供を乗せて交通事故に遭ったら全て車側が犯罪となるのです。
我々の脳は刷り込まれた常識の「善・悪」の判断で答えを決めてしまう。
たとえそこに真実が存在していなくてもそうだと断定しがちなのである。

禅語の「不思善・不思悪」とは善にも悪にも囚われないという意味です。
私たちは普段、好きと嫌い、利と害、優と劣、長と短など、
物事を2つに分けて考えています。これを分別心といいます。
一般的に「分別がある」というのは、善悪の判断や物事の道理が
わかるといった良い意味で使われる言葉ですが、
禅では「無分別」ということが言われます。
無分別智に到れば、分別己以前に、物を照らし分けて、ついに惑うことなしというのです。

分別というのは、惑いがあると書かれています。
逆に、無分別は、分別以前に物を照らし分けて惑いがないというのです。

物事を分けて考える時、その基準はいったい何でしょうか。
自分の経験や価値観、世間の常識、社会のルールなど様々な基準が
考えられますが、それらが不要だというわけではありません。
そういったものに執着しすぎると、迷いや悩み、苦しみを生じて
私たちに本来そなわっている純粋な心、仏さまの心を覆い隠してしまう
ということではないでしょうか。

臨済禅師は「随所(ずいしょ)に主となれば、立処(りっしょ)皆な真なり」と
言われました。これは、「いついかなる場所でも、何ものにもとらわれず、
常に主体性をもって行動すれば、真に生きがいのある人生を生きていける」
という意味です。「禅」とは、特別なものではなく、日常のあらゆる場面で
三昧(ざんまい)になりきることです。
三昧とは研究三昧、釣り三昧、味覚三昧など心を一つの対象に集中して
動揺しない状態を言います。
そのことが、真実の生きがいのある人生だと、臨済禅師は説かれるのです。

一般的に分別がある人とは善・悪が判断できる人です。
しかし西洋的な二項分立の考えは日本には合わないのです。
日本的な考えはそれぞれを組み合わせて中庸の価値観を大切にします。
AもあるがBもあるよね、だけどもCも間違いではないとする考えです。

「和をもって貴しと為す」聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉です。
「何事をやるにも、みんなが仲良くやり、いさかいを起こさないのが良いということ」
という意味です。
我々世代はこの言葉が脳に刷り込まれているために「仲良く」が基本になっています。

日本人が国際会議においてもハッキリしないのは参加国に気を使いすぎて
「和」を大切にしすぎるからです。
総理大臣や各大臣は国としての意見と共に自分の意見もハッキリと述べるべきなのです。

古い常識で物事を判断するのはやめにしませんか!

世の中全体が大きく変わってしまっているのに、まだ教科書の言葉で縛られていませんか。
戦後アメリカに削除された「地理・歴史・修身」を取り戻しませんか。
日本という国の成り立ち、地理上の立ち位置、日本人としての善悪の判断を
教えることにより、「日本人の誇り」を取り戻しませんか?

我々の間違った自虐的歴史感は、GHQによって植え付けられたのはご存知の通り。
それはGHQのコントロール化にある日教組が教科書を作成したからです。
教科書には以下の様に書いてあります。
「私たちは、日本は世界征服の野望を抱き、アジア各国を侵略し、
そこでアジアの人たちを大量に虐殺した。
日本はこれを深く反省し、被害を与えた方々に謝罪と賠償をしなければならない」
果たしてこれは事実でしょうか?

真実は、日本が世界中の植民地を解放し、欧米諸国の世界奴隷化計画を
止めさせたのです。
タイは、昔から親日国家です。なぜなのだろう?と調べたらかつての
タイの首相が以下の様な発言をされていたのを読みました。

「日本のおかげで、アジアの諸国は独立できた。日本というお母さんは、
難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、
一体誰のおかげであるのか。
それは日本というお母さんがいたからである。

12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して
重大決意された日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さんが、
病の床に伏した日である。
われわれはこの2つの日を決して忘れてはならない」
東京裁判でのパール判事の無罪判決もこの思想が根底にあるからです。

戦勝国が敗戦国を裁判することは国際法で禁止されているのです。
それほど世界は日本の強さの復活を恐れたのです。

迷路の先には明るい未来があります。
理想だけを描くのではなく、現実を話し合いながら、国作りをするのです。
それぞれの地域で、心ある人たちが立ち上がり、真剣に子供の未来を作りませんか?
これからの時代の主役は大人ではなく子供達なのです。

「老人と孫」の対話集会を各地で開き生の声で話し合いませんか。
強い日本を復活させていきましょう。