言霊

 

「志有るの士は利刃の如し。百邪辟易す。
志し無きの人は鈍刀の如し。童蒙も侮翫す。
(佐藤一斎「言志四録」より)

志のある人は、鋭利な刃のようなもので、
いろいろの魔物がすべてしりごみして近付けない。

なにもしようとする意志の無い人は、
なまくら刀のようなもので、子供までがばかにする。

逆境でひるむこともなく、恐れる事も無く、
立ち向かう精神力こそ、高い志に繋がる。

先人の教えを学びながら時世に即した
行動を興さなければならない。

智識を触媒として智慧を身に付ける為には、
「狂う」程の情熱が無ければ成就することはない。

幕末の時代に多くの志士が師と仰いだ吉田松陰は、
「死して後已む」(できるまではやめない)
という言葉を残し自らを手本とした。

また「かくすれば、かくなることと知りながら、
やむにやまれぬ大和魂」と辞世の句も読んだ。

自分の考えを行動に起こせば必ず死罪は免れないと知りつつも、

この国の行く末をおもえばやむにやまれぬ思いを止める事は出来なかったのだ。

志士が恥じるのは、学問をして行動を起こさない事である。
そしてそれ以上に恥じるのは、失敗を恐れて何もしない事である。

現在のこの国を憂い21世紀の新たなる開国に望まなければならない。

平成の志士達の志を持った人材育成が急務なのである。

旧態依然と変わらない国政を根底から変えなければならないのである。

名称「日本維新の会」本気で死ぬ気は無いのに
ムードだけで旗揚げをした軽き者たちよ。

国政の為では無く選挙の為のパフォーマンス等以っての外である。

政治を職業として安穏とした生き方の中から、
この国の未来を推し量る事が出来るのだろうか。

選挙に出馬するだけで満足しているような
烏合の衆を街頭に立たせて何になるのだろうか。

挙句の果ては賄賂を渡して公職選挙法に違反まで犯している。

誰が責任を取るのであろうか、
H氏もI氏も「西南の役」の西郷隆盛に成る気があるのだろうか。

ここに勝海舟の言葉が有る。

「維新の頃には、妻子までもおれには不平だったよ。
広い天下におれに賛成するものは一人もなかったけれども、
おれは常に世の中には道といふものがあると思って、楽しんで居た。

また一事を断行して居る中途で、おれが死んだら、
たれかおれに代わるものがあるかといふことも、ずいぶん心配であったけれど、

そんな事はいっさい構わず、おれはただ行ふべきのことを行はうと大決心をして、
自分で自分を殺すやうな事さへなければ、それでよいと確信して居たのさ。」

誰かに認めてもらうなんてこれっぽっちも無かった。
一人でもやり通す意気込みが魂を奮い立たせる要因になったのである。

哲学者森信三の言葉に、
「九十九人が、川の向こう岸で騒いでいようとも、
自分一人はスタスタとわが志したこちら側の川岸を、
わき目もふらず川上に向かって歩き通す底の
覚悟がなくてはなるまい」

先ずは個人の志が大切で
その後に志同じくする同士が大切である。

最初から徒党を組んで改革に臨もうとするような
軟弱な考えでは、人の心は動かないのである。

幕末の改革が成功した裏には、志を同じくする個人が
全国各地から結集したからである。

国の為にならいつでも命投げ出す覚悟で国内外を東奔西走したのである。
読めない専門書を読み、知らない異国に飛び出し、
軍事技術や法律・文化まで手書きで書きうつし持ち帰って来たのである。

素人は本来の目的を熟考せずに血気に走るだけで重みが無い。

玄人は「鎡基ありといえども時を待つに如かず」(孟子)、
経験や知識は必要な時にしか役立たないからタイミングを見計らっている。

しかし大切なのは心意気である。
「おれがやらなけりゃ、だれがやる」である。

山本常朝「葉隠」の中にも
「人は立ちあがる所がなければ物にならず。
人より頭をふまれ、くさくさとして一生を果たすは口惜しき事なり。
誠に夢の間成に、はっきりとして死度事ぞかし。」

人間は決然と事を処するところがなくてはものにならない。
人から頭を踏まれ、ぐずぐずと一生を終えるのは口惜しいことである。

人間の一生などはほんの夢の間のようにはかないものだから、
生も死もはっきりとさせたいものであると書かれている。
京セラの稲盛会長も
「表面上に起こるさまざまな問題や、波乱万丈な減少に惑わされず、
その奥に何が有るかをしっかりと見極められる人材が必要だ」

「感情や損得などで物事を表面的に判断しては駄目だ。
政治家であれば、日本のあるべき姿を洞察できる資質を持ち、具体的な行動指針で
問題点を解決する不撓不屈の精神が必要だ」と述べている。

先人達の言霊(ことだま)に魂を震わせる時期である。