心とは




心とは人間のどこにありますか?
よく交わされる問いかけである。
それは心臓だよと胸を指す人も大勢います。
またそれは頭の中だよと頭を指す人も大勢います。
いやいや腹だよと腹を指す人も大勢います。

老婆心、好奇心、心が折れる、魚心あれば水心と心を使う言葉は沢山あります。

心の語源には、「凝々(こりこり)」「凝々(ころころ)」「凝る(こごる)」
などから 転じたとする、「凝」に絡めた説が多くあるが、正確な語源は未詳である。
漢字の「心」は心臓の形をかたどったもので、中国語では心臓の鼓動と
精神作用が結びつけて考えられていた。

cetasika(チェータシカ:心所)は「心にあるもの」「心によるもの」で、
言い換えれば、心の成分のようなものです。心は必ず心所と共に生じます。
この場合の『心』とはパーリ語の citta(チッタ)のことで、「生きている」
というような意味です。仏教では、「心がある物体」を生命、「心のない物体」
を物質と言っています。

私たちが自分で「心」と感じているのは心(citta)ではなく
心所(cetasika)です。「私は悲しい」と言うときは、心を悲しませる
心所が心にあるということです。
「私は悲しい」ということは決して事実ではありません。
『私』という存在があるわけではなく、実際にあるのは心と心所なのです。

悲しんでいたのは私だし、勉強をしていたのも私だし、今ふざけているのも
私だし…やはり『私』がいる、と思うのですが、それはただ心の作用に
悲しい波や楽しい波などいろいろな波があっただけのことです。
遊んでいる、勉強している、悩んでいる、考えている、怠けているなど
私たちの状態や動作を表す言葉はすべて心所に基づいて言っている言葉です。

心とは何かということですが、それは具体的に理解できるものでしょうか。
簡単に考えると、心というのは、身体という物体とくらべて考えれば
より分かりやすくなります。身体というのは、この地球から借りたただの
物質のかたまりなのです。とはいえ、その辺にある岩とか、池とか、
道路などとくらべるとどこかで違うのですね。

この岩と、自分の身体をくらべると、どちらも地球の一部だから
同じだけれど、どこか違うところもあるのではないかと気が付くはずです。
その違うところは「心」と見ましょう、「心」という言葉で一応確認して
おきましょう。では何が違うのか探してみます。
たとえば私はしゃべっている。岩はしゃべっていない。
それで喋るということは「心」の働きとします。

ではスピーカーも喋っているのですか。そうではありません。
スピーカーは音というエネルギーを作っているだけで、決まった振動を
送りだしているだけです。一方的で相互的ではないのです。反応はしません。
「こんにちわ」といっても反応はありません。私は話をしていますが、
皆さんがつまらないと言って出て行ったら、話す相手がいないのですから
話をやめる。そのような動きをするのが「心」なのです。

また、この部屋は涼しいとか暑いとか、私達は感じます。岩は感じません。
暑さ寒さを感じるのも、心の働きのひとつなのです。ものを見る。
それから面白いと思う、つまらないと思う、楽しいと思う。
いろいろなことを感じます。岩を棒切れでたたけば、岩は割れるかも
知れませんが、それ以上の反応はありません。
しかし、人の身体が殴られたら、反応はまた違うのです。痛いと思ったり、
あるいは気持ちいいと思ったり、また、何をするのだと怒ったり、
いろいろな感情的な反応をするわけです。

このように、物体と違うところ、それが心なのです。
心は隠れているものではありません。ものすごく巨大な動きです。
それが、この身体の中にあるのです。
人と喋ったり、喋る相手がなければ頭の中でいろいろなことを考えたり、
またいろいろなものを作ったり、さらに、自然を破壊したり、
自然を破壊しながら自然を守っているのだと嘘をついたり、
それらすべては「心」の働きです。
(余談ですが、本当に自然を守っているのは自然そのものなのです。)

しかし自然はぜんぜん自慢しませんしね。植物も、石も山も雲も、川も海も
ちゃんと自然の循環を守っているのですが、海が自慢するのを、
一度も聞いたことがありません。
「私がいなければ地球はもうダメですよとは誰も言いません。」でも、
人間だけは自然を守っていると自慢するのです。自慢もこころです。
また、動物も、生きるためにいくらかは自然を破壊します。

ですから、動物にも心はあるのです。動物も反応します。
泣いたり、痛がったり、嫉妬したり、喧嘩したり、また子供を作ったり
するすべての生き物は、人間と同じように「心」を持っているのです。
すべての行動には知性よりも感性で行われます。
危険を察知する能力も心が反応して次の動作に写るのです。

その中でも最も顕著に表れるのが「愛」の感情表現ではないでしょうか?
好意を寄せる、守ってもらえる、子孫を残す、家族として群れる。
「心」は「本音」と比較されることもあります。
「心のない言葉ではなく本音で話をしてくれ」と恋人同士は詰め寄ります。
大切な愛の確認をしなければ心の底から心ある物体として満足が出来ないからです。

最後に今一度心とは
心所は「心にあるもの」「心によるもの」で、言い換えれば、
心の成分のようなものです。心は必ず心所と共に生じます。
この場合の『心』とはパーリ語のチッタのことで、「生きている」
というような意味です。仏教では、「心がある物体」を生命、
「心のない物体」を物質と言っています。

「心」は肉体を動かす原動力なようなものです。
直観で集めた情報をまとめて、次の行動に移るために
必要なエンジンの役目を心が担っています。

心は善意の塊です。心が悪の為に動くことは無いのです。
心を失わなければ善意の物体人間となるのです。
濁りのない子供のような心を「純心」と言います。
聖母マリアの「けがれない心」を意味しています。
本来は「純真」と表記するのですが東京純心女子学園の
シスター江角ヤスさんが女子教育の理想として「純心」を掲げたのです。