完璧主義からの脱却
日本人は、「自分1人で頑張らなければならない」「弱みを見せてはいけない」
という考えに縛られがちだ。日本では失敗が許されない空気が流れている。
だからこそ、記者の質問のように「恥をかくのではないか」と常に心配し、
その記者自身も質問に失敗して、SNSという世間から許してもらえない。
この完璧主義的で重苦しい空気が、社会全体の停滞を
招いているのではないだろうか。
日本にはアメリカのGAFAのような新興企業が生まれていない。
優秀で勤勉な日本人が多くいるにもかかわらず、アメリカのGAFAのような
新興企業が生まれてこないのも、失敗を恐れてリスクを取れない
社会の風潮が一因だ。どれだけ「貯蓄から投資へ」とお金が回っても、
新たな挑戦をする人がいなければ、イノベーションは起こらない。
「凸と凹の噛み合い」
この「失敗を許さない空気」は、個人の生き方や働き方にも
深刻な影響を及ぼしている。ビジネスパーソンは、英語は話せないといけないし、
エクセルやチャットGPTも使いこなせないといけない。
プレゼンやコミュニケーション能力の向上が求められる。
しかし、小泉進次郎が語ったように、足りないところを補い合うことができれば、
もっと気楽に仕事ができるだろう。
社会学者の宮台真司氏も「凸と凹の噛み合い」の重要性を説いている。
英語ができなくても英語ができる人を頼り、体力がなければ体力のある人を頼る。
すべてを1人で完璧にこなそうとするのはコストが高すぎる。
だからこそ、お互いの得意な部分を活かし合うことで、集団全体の生産性を
高めるのが賢い生存戦略だ。感覚的な話ではなく、数理的に考えて
あたりまえの話なのだ。
アップルを創業したスティーブ・ジョブズも、
「人に助けを求めることが成功の基盤だ」と語っている。
最近、金融経済教育に力を入れる学校が増えている。
その際には「今日は、お金よりも仲間のほうが大事なことを証明します」
と語りかけている。
これは道徳の話ではない。お金という道具の意味を理解すれば
当たり前の話なのだ。
お金が存在しなかった時代、人々は村の中で協力し合いながら生活していた。
お金が発明されると、村の人に直接頼らずとも、支払いによって
必要なものを手に入れられるようになった。
しかし、それはお金が物に変わるということではない。お金を支払うことで、
まったく知らない人の協力を得られるようになったのだ。
お金とは、協力し合う仲間を増やすためのシステムなのだ。
では、「仲間を増やすためには、お金を増やせばいいじゃないか」
と思うかもしれないが、これはまったく反対だ。
「お金を増やしたい」という目標を掲げても、誰もあなたに
協力しようなんて思わない。あなたがお金を増やすことは
他の人にとってまったくどうでもいいことだからだ。
協力してくれる人がいないから孤立かがすすみ、
自分1人でいろいろ頑張らなきゃいけないと考えるようになる。
さらに、頼るものはお金しかないから、お金を増やすことを考えて
協力者が現れないという悪循環に陥っていく。
それよりも、人を楽しませるとかみんなの不便を解決するとか、
他の人の幸せが含まれる目標を見つければ、仲間はたくさん増えて、
いろいろなことが実現しやすくなると学生向けに話している。
社会全体では、そもそもお金を増やすことができない。
最近、利上げが行われて、金利によって全体のお金が増えると
信じている人もいるのだが、そこには大きな誤解がある。
拙著『きみのお金は誰のため』では、お金と社会の仕組みを説明しているが、
お金を奪い合うことよりも、未来を共有することの重要性を経済的な
視点から説明している。
小泉進次郎氏は、「足りないところを補ってくれる最高のチームを作る」
と言っていたが、これはチーム日本としても同じことが言えるだろう。
国の中にも仲間意識があれば、新しいチャレンジをする人や会社を
叩こうとする人も減るだろうし、仮に失敗したとしても、
それはチーム日本として、次の挑戦に活かせるはずだ。
その仲間意識を持つためにも、共有する日本の未来を描いてくれる
リーダーが必要とされているのではないだろうか。
そして、私たち1人ひとりも、周りとの協力を意識したほうが、
気楽に暮らしていけると思うのだ。
「きみのお金は誰のために」田内学より
完璧主義を緻密な構造を組み立てることと勘違いすると失敗をする。
ロダンの「言葉抄」を読むことを薦める。
19世紀フランス、近代彫刻の父ロダンの言葉の数々を、当時の弟子や秘書が
筆記したもの。よくぞ残してくれた!人間ロダンは頑固だけれど、感激屋さん。
芸術のためには決して迎合せず、馬鹿正直に苦しみ喜びながら生きた。
本は、どこをどう開いても詩的な情熱と、ものの本質を見抜く眼差しと、
生や自然、美への讃歌に溢れている。女性への賛美も真っ直ぐだからか、
カミーユ・クローデルをはじめ女性の弟子が多かった。
ロダンは、神々でなく生きた人間を彫った。
眼でなく叡智でものを見ろ、だがそれが出来る者は実に少ない。ロダン
リルケの流れで読む。
あまり文章を残していないロダンが語ったことなどを筆録し、高村光太郎が
翻訳した本。ロダンは繰り返し、自然を研究せよ、芸術家は創作する
必要はない、自然を掘り出すだけだ、というようなことを語る。
そして古代の芸術を見よ、彼らは自然を訳出する術を知っていた、と。
彫像家のロダンの言う「自然」には、もちろん人間そのものも含まれている。
それが、当たり前のことのようで、自分にはものすごく新鮮なことだった。
私の好きな文は大甲鉄艦について書かれていた部分である。
「大甲鉄艦を建造するには、ただそのあらゆる部分を数学的に構造し
組み合わせるだけでは駄目で、正しい度合いにおいて数学を乱し得る
趣味の人によって加減されなければ、船がそれ程よく走らず、
機械がうまくゆかないという事です。してみれば決定された法規というものは
存在しない。「趣味」が至上の法規です。」
完璧主義者は古い理屈に縛られてすべてが理論通りでないと納得しないのである。
時代が変わりこのことをAIがどのように判断するかである。
どのようなことも瞬時に答えを出すAIが「あそび・ゆとり」を
算出することは出来るのだろうか?
日本人の職人さんは完璧を目指すがそこに必ず「あそび」を入れる。
そこの「ゆとり」が日本の美を完成させたのである。