和敬清寂




私は全てにオープンで隠し事をしないタイプだが礼儀は重んじる。
最低限の相手を敬う心はどんな時にも神経を使う部分である。
時代がどのように変わろうとも礼儀を欠く人間とは信頼関係は築けない。
デジタル社会では言葉が記号になり伝達は出来るが言葉の韻を踏むことがない。
私の大好きなこの言葉「和敬清寂」は茶室の掛け軸としてよく使われています。

本日はお茶に関する話です。

茶道の作法①準備
まず茶室に入る前に、腕時計やアクセサリーを外します。
これはお茶碗を傷つけないようにするため。また、腕時計をしていると、
つい時間をチェックしがちですが、これは茶室の亭主に対して失礼にあたります。
基本的に茶会に持っていくのは懐紙や楊枝など、必要なものだけ。
ほかの荷物は邪魔にならないよう、まとめて風呂敷などで包んでおきます。

茶道の作法②茶室に入るとき
まず、茶室のどこに座ればいいのか?と考えこんでしまう方に、
ひとつアドバイスです。茶室に入るときは正客から順に入り、
正客から順に席に着くことになっています。
正客とは、茶室を主催した亭主にとってのメインとなる招待客をいいます。
はじめは正客やほかの招待客の連れとして茶会に参加する場合が多いでしょうから、
正客や招待客の次に入るようにします。
畳の上を歩くときは、畳のフチ(へり)を踏まないように気を付けましょう。
全員が茶室に入ったら、最後のお詰めさんはピシッと音を立てて入り口のふすまを
占めます。これが「全員入りました」という合図。
この音が聞こえたら、裏口から亭主が入ってくることになっています。

茶道の作法③お菓子をいただくとき
茶室の床は畳になっており、畳のフチが境界線となっています。
これは、戦国時代に相手に攻め込まない意思を表明した名残。
座るとき、お菓子をいただくとき、お茶をいただくとき、
すべてフチの内側で行います。
菓子皿はフチの外側に置き、懐紙はフチの内側に置き、
箸でお菓子を移動させます。
ときどき茶会では、お茶菓子を落としてしまう方がいます。
これをふせぐには懐紙を束の状態で使うのがポイント。
お菓子を取ったら、懐紙の隅を使って箸の汚れをぬぐい取ります。

茶道の作法④お茶をいただくとき
まずはお茶碗をフチの内側へ。次の方がいる場合は
「お先にお相伴させていただきます」と声をかけます。
お茶碗を取る前に亭主に向かって感謝の気持ちをこめ、「お点前頂戴します」
と一言。お茶碗を右手で取り、左手に乗せたら時計回りに茶碗を回します。
正面を亭主の方へ向け、右手を添えてお茶をいただきましょう。
飲み終わったら正面をまた自分の方へ向け、フチの外へ。次の方へ回します。
こうしてお茶をいただく間、亭主は正客と話をしています。
その日のお茶やお菓子、道具や掛物など飾りつけの由緒が明らかにされます。

茶道の作法⑤道具を拝見するとき
お茶をいただいた後は、道具の拝見があります。道具には茶会のテーマなど、
亭主の思いが込められていますので、ていねいに扱いましょう。
道具を拝見するときは、いずれも畳のフチの外側におき、両手をついて拝見します。
それから手に取りますが、高い位置に持ち上げたりせず、低い位置で拝見します。
高々と掲げると、うっかり落としてしまう心配もありますからね。
お茶をいただくときと同様、次の方に「お先に」と声をかけてから拝見しましょう。
棗(なつめ)など、抹茶が入っている器は、中身をまき散らすことのないよう、
とくに注意してください。フタを取って内側の花押や抹茶の景色を拝見しますが、
フタをしているときも、ひっくり返したりしてはいけません。
茶杓(ちゃしゃく)を拝見するときは、櫂先(かいさき・抹茶をすくう部分)に
触れないように気を付けます。

茶道の作法の基本は「心配り」
茶道の作法を細かく解説してきましたが、どれも細かな心配りが根底にありました。
亭主への感謝、ほかの人への気遣いなど、いつも心の片隅においておけば、
きっとお茶会でも失敗知らず!
お茶会に限らず、普段から心がけておきたいものの一つかもしれませんね。

お茶会は全て作法に則り執り行われます。
主人も客も大切な心構えは「和の心」です。

「和」の語源は、声を揃え音律を整える意にて、まさしく隔てなく
同化することである。和敬するところ、真あり美あり、善あり平安あり、
又愛あり助け合いあり。これを仏の世界とは言うなり。
聖徳太子曰く「和を以て尊としとなす」と。この言誠なるかな。
真実は永遠なるらん。君に問う、これ一体誰の事ぞと。

我々は不安なく軽快に暮らしたいと願っている。それが自然であり
市民生活を営む基本的条件の一つだからだ。
ところが世の中は嫌なこと、苦しいことを余儀なくさせられる。
その内で最も辛く悲しいことは、殺戮し合うことである。
次が裏切であり騙しであり差別であり無視されることである。

こうした人間性不在の世に深まっていったら、生きている価値もなければ
命の輝きを見ることなく、実に空しい生涯を送ることになる。
人間同志が信じ合えないほど、心が乾いて空しいものはないからだ。
反対に一番生きがいを感じ存在感を味わうことは、自らこの身を済度して
不変の大自信を確立することである。
何ものにも惑乱されることがないほど確かなことはない。

次に皆から大切にされることであり、信じられることであり、
尊敬されることであり、愛されることである。
そして爽やかに意義ある事柄で頼られることであり、
己を忘れて理想に向うことである。こうした世の中にしてはどうだろうか。

日本の文化の土壌をつくり、茶道の背骨ともなっている仏教では、
この世は「無常」と説く。常に変化の連続だというのである。
また、すべてのものは「縁起」によって生じているとも説く。
すなわち、すべての生きとし生けるものは、互いに関係し
依存し合いながら存在しているというのだ。
だから、二度とないこの瞬間の出会いを大切にしようとする。
それが「一期一会」の精神である。

千利休は、茶道の心を四つの漢字で表した。『四規』と呼ばれる
「和敬清寂」の4文字である。
この意味は、「互いに心を開いて、敬い合い、常に清らかに
何があっても動じない心をもとう」ということだ。

茶室では、客は常に正しい。正座ができなければ、
胡座で茶をすすろうが、一口で飲み干そうが自由なのである。
これは、旅館でも変わらない。
いやもっといえば、客の気ままを許す心が、日本のもてなしの心だといえる。
そこに生まれる互いを敬う気持ちが、客の節度をつくり、
同時に日本のもてなしの質を高めてきたのである。

茶道の所作と作法の中に日本人の礼儀が全て詰め込まれています。
これはとても大切なことですのでなるべく早く経験をされた方が良いです。
本日は「和敬清寂」の話でした。