心を緩くする




心を張り詰めたままの状態にしていると必ず体にゆがみが出てきます。
ギター奏者が毎回弦を緩めて保管するのはギター本体のゆがみが出るからです。
あなたの心の弦は張り詰めたままにしていませんか?
いつ新しい弦に張り替えましたか?思い出せないほど昔に交換したままですか?
心を緩くするとは「執着心」を取り除くことです。
お金にも、物にも、考えにも、人間関係にも執着していませんか?
これらを取り除くのは「感情をため込まない」「頼れる先を増やす」
「自分磨きをする」ことを取り込むことです。

感情をため込まない=思ったことを口に出して言う。
黙ってしまうとそのことの執着から離れられなくなります。
口に出せない場合は日記でもよいので書き出すことです。

頼れる先を増やす=気軽に話せる人を増やす。趣味を増やす。
推しを作るなどの方法で執着の心を分散させてください。

自分磨きをする=バランスの取れた食事や軽い運動を繰り返し体力をつける。
良書に親しみ心を磨く。毎日「恩学」を繰り返し読むこともお勧めします。

執着を手放すには、自分と向き合うしかありません。自分が何に執着しているか、
どうして執着しているのかを知り、自分に合った方法で、少しずつ執着と適度な
距離を保つことです。張り詰めたままの弦だと心が固くなります。
柔軟な心にすると、今まで気にしていたことが離れていきます。

ここからが本日の教えです。
あなたの心が硬いと自然の恵みが感じられなくなります。
雨も嵐も暴風も邪魔だと思えば害になるのです。
しかしそれが自然からの恵みだと思えば全てが益につながります。
人の縁も心が硬いと邪念が働き素直な気持ちが失われてしまうのです。
自分が利用されていると思えば怒りや憎しみが現れる。
そして相手を信用しなくなる。これで負の連鎖が始まることになるのです。

心を緩める方法として「無言の行」がある。
目があるから不要なものを見る。耳があるから真実の音が聞こえなくなる。
口があるから不要な言葉を発してしまう。鼻があるから不要な匂いを嗅いでしまう。
どちらにしても坐禅の世界へ入れば全てが消えて無くなるのです。
自己流ですが座禅は道場に通わなくても自宅でも出来るのです。
静かな環境で音も臭いも無くしてあぐらをかいて目を閉じればよいのです。
深い呼吸の中で雑念を振り払い、心を整えるのです。
時間は気にしなくても出来る範囲の中で行えばよいと思います。

欲も損得も分別も無い平常心が心をゆるくするのです。
人は不要な知識に縛られて身動きができない状態を自ら作り出しているのです。

フランスの作家/思想家ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)の有名な言葉に
こんなものがある。いわく、「人間は自由の刑に処せられている」。
不自由の中の自由を知らなければ動物と変わり無いのである。
何も無いところにただ置かれて自由だと勘違いするのは愚の骨頂である。

「平常心是道」
この言葉の由来は中国南栄時代の無門慧開(1183‐1260)によって編まれた仏教書、
または禅書・公案集と呼ばれる著作にある故事からなる公案です。
登場人物は中国の唐時代の禅僧「趙州(778年‐897)」禅師とその師にあたる
「南泉(748‐835)」禅師との問答が元になっています。

また、南泉禅師はその師の馬祖道一(709‐788)禅師が「平常心」を説かれた
語録があります。今回は有名禅問答である趙州と南泉禅師の問答を参考にいたします。

「無門関」第19則
趙州和尚が師の南泉和尚に「如何是道(道とはどんなものでしょう)?」と
尋ねた。その答えが「平常心是道(ふだんの心、そのものが道である)」と
答えた。※ここで言うところの「道」とは仏道である。
趙州「その心とはどのようにしてつかむことができるのでしょうか」
南泉「つかもうとすれども、つかむことはできない。」
趙州「つかむことができなければ、それは道ではないのでは」
南泉「道は考えて理解できない。しかし、わからないといってしまうこともできない。
考えて分かるのであればそれは妄想である。わからないものであればまったく
意味のない事になってしまう。」
南泉「理解できる理解できないという分別を離れると自ずからそこに道が現れる。
まるで澄み切った秋空の如く、分別を入れる余地はまったくない。」
趙州「なるほど」
趙州はその答えを聞いて悟ったという・・・。

皆さん、理解できましたか(笑)
勿論この問答で悟りを得た趙州禅師が希代の高僧でありますから、
凡夫(一般人)の我々が理解できないのは至極当然であります。
簡易な言葉の羅列である、この禅語が実に奥深い言葉であります。
南泉禅師は簡潔に悟りの境地(悟りといっても様々である事は留意しておく)
を述べているわけですが、仏教の基礎知識やある程度の実践を伴い、
初めて身心共に納得できるのが禅語には多分にあります。
その代表格がこの「平等心是道」になります。

特に今回の禅問答で理解しなければならないのが「分別」の意味でしょう。
分別とは人間にある相対性的で両極端の思考を嫌う為にある、相反する見方です。
例えば「美しい」があれば即ち「汚い」があり、「幸せ」があれば「不幸」が
あります。更にいうと「金持ち」⇔「貧乏」「賢い」⇔「愚鈍」「好き」⇔
「嫌い」の必ず人間は違いを明らかにします。

更にいうと「悟り」⇔「迷い」のように悟る悟らない、も分別として捉えます。
即ち「分別を離れる」ということはこの相対性で図る事(造作)をやめる事。
また、馬祖禅師も「造作無く是非無く、取捨(選択する)無く
断常(死後の断絶)無く、凡聖(凡人と聖人)無しと説かれています。

造作無くというは、平常心を持とうとか平常心になろうと心かけるような
作りごとをしないと言うことです。
迷いも悟りもない。その造作しない(分別しない)ありのままの心こそ
そのまま道であり仏であります。
そこに自己に「気づき」初めて「仏性現起(全てのものに仏が宿る)」が
ある事を自覚し、ありのままの自己こそが「平常心」であり「仏」そのもので
あるいうことです。

「気づく」ことが大事であり、それがなければ「仏」を自覚する事もなく、
分別して平常心とはかけ離れた一生を歩むことになります。
すべてのものに「仏」がある事に気づけば世界は一層素晴らしいものになると
思います。

「平常心是道」。簡易な言葉の真髄こそ正に「禅」そのものであるし、
全ての禅語は基本的にはこの考え方を元に見ると理解しやすいかもしれませんね。
今回は少し難しかったかもしれませんが、この禅のニュアンスを伝えるのは
なかなか高度であります。

私も常に平常心になり「心を緩くする」ことを心がけています。
日常生活の中で雑念を取り除くことは大変難しいのですが、
みなさまもあれこれ悩むのではなく「心を緩くする」ことを心がけてください。

2024年1月3日