そのままを生きる
6歳の時父親に引き取られてから一時お寺に預けられました。
ある日の夜に住職と奥様が話されているのを聞いてしまいました。
住職「あの子の親はいつ引き取りに来るのだ」「早く出て行ってもらってくれ」
奥様「可哀そうな家の子だから親が引き取りに来るまで預かりましょうよ」
そこに娘たちも加わり「汚いから嫌いだ」と言われました。
子供心に肩身の狭い思いなのかで自ら率先して本堂の掃除や廊下の拭き掃除、
庭の掃き掃除もしていたのですが、これが自分に課せられた運命なのだと思うことで
悲しくありませんでした。
辛かったのは寝泊りする部屋がお墓の近くで、外の物音も、部屋の掛け軸も、
恐ろしくて、毎夜、早く夜が明けるのを待ち続けたことです。
傍目にはかわいそうな子だと映るのかもしれませんが、
当人にすれば仕方ないと諦めているのでつらくも悲しくもありません。
赤ん坊は母親の子宮から狭い産道を通り生まれて来る。
その時に分娩室の照明や看護師さんの声や、それまで母親と栄養を分け合っていた
臍の緒をいきなり切られる地獄を味わうのです。
だから怖い幼児体験が5~6歳まで続くので、苛酷な状況でも、
子供は気にせず生きられるのだと本で読んだ記憶があります。
私の負けず嫌いと闘争心はこのような環境があったからこそ作られたのです。
たまたま同じような内容をサイトで見つけました。
参考にして読んでみてください。
年末に近隣のお寺に手伝いに行った時のことです。そのお寺の住職は高齢ですが
お元気で、今でも庭木の手入れをご自分でされています。
作業をしていると、ひょっこりと小学生らしき男の子がやって来ました。
近くに住んでいるそうで、以前にも来たことがあり、その時に住職から
「また来て、庭の手入れの手伝いをしてくれ」と誘われていたそうです。
住職は喜んでいる様子でした。少し手伝ってもらってから、休憩時間になったので
軒下のベンチに三人で座り、しばらく雑談をしました。
すると話をしていく中で、男の子が二歳の時に父親を亡くしていること、
住宅メーカーに勤める母親との二人暮らしであることが分かりました。
私はその話を聞いて、男の子は寂しい思いを抱えているのでないか、生活する上で
色々な不都合があるのではないだろうか、と深刻に受け止めてしまい、
どう接していいか分からなくなってしまいました。
しかし住職はそれまでと全く変わらない様子で、和やかにこのような
お話をされました。「手伝いに来て偉い。言われたことを一生懸命にやっているのも
すばらしい。お母さんが頑張って働く姿を見ているからだろうな。
あなたはお父さんがいる友達を羨ましく感じることもあるかもしれないが、
この庭を見てごらん。木や草は種類が違うと姿が違う。同じ肥料を与えても、
真っ直ぐ育つやつもいれば、横に育つやつもいる。
あなたは身体が大きいけれど、身体が小さい友達もいる。
足が速い人や、勉強が苦手な人もいる。
違いがあるのが自然で、同じであるのが不自然なんだよ。
他の人と比べることは大切ではないんだ。自分を大切にして、自分がこれだと
決めたことを頑張ることが大事なんだよ。」 男の子は真剣に話を聴き終えると、
嬉しそうにうなずいていました。住職と男の子の交流を見ながら私は、
自分の未熟さを感じていました。自分は比較ばかりしていることに気付かされました。
男の子の家庭環境に対しても、他の子供と比較し、どちらが良いのかという
視点からしか捉えていませんでした。たとえ平等に恵みを受けたとしても、
草木は種類が違えば姿かたちは変わってきます。
鈴木大拙が説く「松は松なりに竹は竹なりに生きていく。松は竹にならず、
竹は松にならずに、自分が主人となって働くのである。」の
真意はここにあるのでしょう。
私は、男の子にとってお父さんがいないことがマイナスだと捉えてしまいました。
しかしそういった環境で過ごすからこそ、お母さんが頑張っている姿を目にし、
見習って一生懸命頑張ることができる。
こう考えることができれば、とても気持ちが前向きで、明るくなるように思えます。
大拙と同じ時代を生きた詩人の金子みすゞさんの作品に、
『私と小鳥と鈴と』という詩があります。
私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のようにたくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。
自分の尊さを噛み締め、そのままの自分を生きていきたいものです
如何だったでしょうか?
そのままを生きるとはつまらない見栄を張って嘘をつくから辛いのであって
そのままを受け入れればストレスも無く快適に暮らしていけるのです。
他人と比べるのでは無く、自分と比べるのです。
あの時の約束は守られているか?昨日より今日は元気に過ごせたか?
明日からも自分の成長のために生きることが出来るのか?
偽りのないそのままの自分を貫き通すことが出来るのか?です。
決して他人の不幸を自分の尺度や常識で判断しないことです。
大切なことは相手がどのような環境であっても不幸だと決めつけないことです。
そのためにも分け隔てなく自然にお付き合いすることが幸福につながります。
そのままを生きていきましょう。それが一番なのです。