哲学への誘い




西洋哲学と日本哲学の難解さには大きな違いがある。
西洋哲学の追求は宗教(特にキリスト教)の教えに抵触しないかの
壁が立ちはだかる。
たとえば地球が宇宙の中心にあり、すべての天体が地球の周りを回っている
とする天動説と、太陽が宇宙の中心にあり、地球や他の惑星がその周りを
回っているという地動説。
日本のアニメ「ち」を見ると、いかに真実を広めるのに教会が壁となって
邪魔をしていたかが分かる。天動説を唱えていたキリスト教にとって地動説は
神の教えにおおきく反するもので全てが異端で犯罪人、国中の隅々まで異端審問官を
派遣して拷問にかけて殺してしまう。現代でも全ての戦争の原因がこれに付随する。
聖書に出て来る「天地創造」この世は六日間と安息日を入れて七日間で作られた
という説も何人たりとも疑ってはならぬ。疑うイコール異端児として扱うのである
過去の常識がすべて正しいとする考えには無理がある。

それに反して日本哲学は仏教に影響されていることがおおうにある。
人間の真理を追究する時に西洋では科学の進化が大いに役立ったが、
東洋では精神論に起因する曖昧な物語が多い気がする。
しかし、そこには修行僧の英知がこめられていて大方の悩みは解決する。
もともと神仏習合のおおらかな国であるから宗教もオープンである。
勿論、昔から宗派同志のいざこざはあったが相手方を殺すほどではなかった。
哲学の謎解きは「無一物」最初から何もない、「不立文字」文字で表せない、
「只管打坐」座禅を組んで座り続けろ。何も考えるな!心を解放しろ!である。
日本の禅を通じて英語で日本人の哲学思考を書き表した鈴木大拙の功労は大きい。
それ以外に西田幾多郎、田辺元、九鬼周造、三木清、和辻哲郎、森信三などが
挙げられる。昔は哲学に嵌ると気が狂うから読むなと言われていた。

ここに令和哲学の長岡美妃先生が書いている文章がある。
とても分かりやすく書かれているので全文を紹介したい。

私の哲学論は「生きる為の自分への手引書」である。
なぜ哲学が貧しい人々に響くのか?
哲学をするということ、すなわち真理を追求するということについて。

「なんでそんな難しいを考えるのか?」と言われる。
もっと世間一般的なことや感覚的なことよりも、知りたい「問い」が
あるのだ。病とは何か?人間とは何か?生死とは何か?苦しみとは何か?
現実とは何か?…その「問い」が私を哲学的思惟に誘う。

ヴィトゲンシュタインの哲学をまとめ出会った言葉がある。
彼は言う。「人間の体には水面に浮かび上がる自然な傾向があって、
水の底へと潜るには努力しなければならない。
それと同様に、哲学的に思考をするためには、その自然の傾向性に
逆らって水の底へと潜っていく努力が必要である」と。
逆もまた真なりということか?

人間の初期設定のまま、つまりは世界に投げ出された状態のまま、
目で見て、耳で聞いて、世界というモノサシを当然と思って生きるだけでは
何も分からなかった。水面に浮かび世間一般の楽しみや感覚的な満足に
浸るより、水の底にある真理を知りたいという渇望がうごめく。
だから私は哲学的思惟を起こす。

人は誰もがいずれスピリチュアルペインに出会う。
その時、何者かに向かって叫ぶように問う。「人間とは何か?」
「この苦しみとは何か?」「生きるとは何か?」「死ぬとは何か?」を・・・
その問いを投げるのが今なのか、先なのかの違いだけ。哲学は特別な人が
する学問ではない。人間の根源を問う、人間にとって第一優先にされるものない

人間はみな孤独である。
それを自覚したくないが為に日常に埋没する生き方を選ぶとハイデガーは言う。
世間話や薄っぺらい好奇心や曖昧な話に終始し続け、そこになんら責任は
発生しない関係性を続けるのだ。

そしてそれでも感じる孤独の穴を埋めようと、悲劇のヒロインを装い
人の関心を引こうとする。「自分はこんなに酷い状態だ」「自分は可哀想な存在だ」
「自分は慰められて当然だ」というストーリーを作り出し、
食肉植物のように誘い込む。誰かがストーリーに乗ってきたならば、
「よし掛かった!」とばかりにストーリーを炸裂させ、相手からエネルギーを
吸い取っていく。そしてこれが生きる活力源となる。

このような関係性は共依存であり、どちらかが完全に目を覚さない限り同じ
ループを永遠に繰り返す。なぜならこのループには
ある種の悦びが付き纏うからだ。それは人間の根源的な痛みである孤独を
麻痺させてくれるという甘い蜜。この蜜の味を締めているため蜜を
取り上げようとするものなら、強烈に抵抗する。孤独と対峙させられる
からである。

しかし人間は孤独なのだ。「体が自分だ」と思っている限り、人と人とは分かり
合うことはない。この絶望を受け入れられるかどうか・・・もし受け入れる
勇気を持つならば、永遠ループから抜け出せるだろう。甘い蜜を「偽物だ!」
と喝破して真の犯人を探しに行く。「こんなにも孤独を生み出す張本人は
誰なのか?」と自らの内に問うていく。そしてそれが真の問いのスタート地点となる。
非本来的な生き方から本来的な生き方に変わる瞬間。

そして真の問いのスタート地点に立ったならば、後は哲学的思惟で問いを
投げ続ければゴールに辿り着く。「はじめから何もなかった」のだと、
「なにもはじまっていなかった」のだと、「すべては一元であった」のだと、
「孤独は幻想にすぎなかった」のだと。

人間は孤独でもある。しかし「知った」瞬間、目の前の現実は
何も変わらないのにすべてが変わっていることを認識する。
以上。
この話の真意は理解できたでしょうか?

米イエール大学助教授成田悠輔がバンタン卒業式での言葉に哲学が存在する。
2000年前ローマ帝国のマルクス・アウレリウス皇帝が言った言葉に
「投げられた石にとって登っていくことが良いことでもないし
落ちていくことが悪いことでもない」この哲学的な言葉の意図は何か!

「ご卒業おめでとうございます」は何がおめでたいのか?
ゲストの成功話をする人がお決まりのパターンである。
人生はどんなに頑張ってもたいしたものにはならないのです。
たまたま運と出くわし、運が良かった人が成功しただけで、
そんな人の話は聞いてもあまり意味が無い。

上手くいくかは分からない未だ試されていない領域へ足を踏み出してみる。
一歩踏み出す勇気、それにはコンプラ社会で実験てきなことを試してみる。
その方法は「幼児性」・「異国性」・「武士性」の三要素が重要である。
幼児性、子どもであるとか子供になる。裸の王様という物語を知っているか。
もともとのタイトルは「王様の新しい服」です。
詐欺師集団が王様に「世にも不思議な透明の服」を作りましたと差し出す。
大人たちは王様が偉い人なので裸のままに歩いていても、素晴らしい服ですねと
見えない服をほめちぎる、しかし一人の少年が「王様は裸だ」と言ってしまった。
みんな馬鹿になれ、無知になれ、世間に迎合するな。

異国性、外国人は好き勝手に言える。日本に忖度しない。外に属している。
この二つは外から変革を求めている。
日本人の同調主義は「空気を読む」という風に反論はご法度なのです。
そこを異国性でズケズケとものを申さなければならない。
内に属していない外から勝手にものを申す。

武士性、社会を変化させるには内側から変える。周りと一緒に没落しよう。
この潔さが武士性である。明治維新のときのように在野の下級武士が集まり
徳川幕府を倒そうとした精神=武士性は、外に変革を頼るのではなく
自らから死を覚悟して変革に臨んだのである。

「成功するより没落しよう。ニコニコと没落しよう」
当時大蔵大臣であった渋沢栄一にGHQから財閥解体の指令が来た。
協力すれば渋沢財閥だけは助けてやろうと言われたときに、構わない
我々も他の財閥同様に解体して「笑って没落する」といった回答をしたという。
「ニコ没」、ニコニコ笑って没落しよう。潔い破壊からしか創造は生まれて来ない。

社会や経済を次のステージに持っていくために自分達も解体していく。
自分達の成功や成功システムを解体していかなければ次に向かえない。
「投げられた石にとって登っていくことが良いことでもないし
落ちていくことが悪いことでもない」卒業生はこれから投げられて石になる。
合言葉は成功するより没落しよう。

世の中が常識として捉えている事柄に反抗しなければ真実は見えてこない。
知識は迎合であり、哲学は苦悩である。疑問を持ち悩むことから始めよう。
成田悠輔は変態であり、個人主義であり、屁理屈屋である。
村おこしの時には「若者・よそ者・馬鹿者」がいなければならない。
絶対的に馬鹿者の部類だが彼のように人間からしか新しい社会は生まれない。
どちらかというと私も同じ部類の人間であることは確かである。


夢を追いかけて




I AM A DREMER
夢という字は夕暮れに遠くを見ることを言います。
視線の明らかならざるなり、夕に従い、瞢(ぼう)の省聲。
将来の夢はと聞かれるとハッキリとしない目標を述べるのが一般的です。

今時の若者には夢がないと発言する大人が大半です。
そんな大人も若い頃夢を持っていたのでしょうか?

昭和の初期には男の子は「末は博士か大臣か」という立身出世の憧れがありました。
女の子は「デパートガールかスチュアーデス」がなりたい職業の定番でした。
今は「ユーチュバーかインフルエンサー」が圧倒的に多いそうです。

一般的に使われる夢の意味は睡眠中に現れる意識の映像を指します
夢を分解すると「 寬 かん 」+「夕」となります。
「寬」は「眉を太く大きく描いた神に仕える女性が座っている様子」、
「夕」は「夜」を表しています。 その女性が夜の睡眠中に現れると
されていました。 そこから転じて「ゆめ、ゆめみる」の意味となったようです。

私が夢で思い出すのがジョン・レノンの曲 ‘imagine’ の中に出てくる歌詞 。
‘You May say I’m a dreamer. But I’m not the only one’
「( 平和な世界を信しる) 私の事をあなたは
夢見がちというかもしれないけれど、きっと私は一人じゃない」
暗いニュースが続く中でも、明るい未来を信じて、夢見ていたい。
私は一人じゃないし、みんなで夢見た世界が、きっと未来になって
行くんだと信じて。 平和は身近な行動に現れる。

今の時代にピッタリの曲であり平和を求める人たちのテーマでもある。
アーティスト達は全ての武器を楽器に置き換えて活動に参加しなければならない。
音楽は国境のない共通言語です。何もせずに待っていても平和は来ないのです。
We shall over come 私達は勝利に向かい乗り越えていかなければなりません。
いまこそみんなが声を上げて歌わなければならない。愛する人のために!

「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」
この太宰治の名言は、時代を超えて多くの人々の心に深い影響を与え続けています。
文学の巨匠である太宰治が、この一言に込めたメッセージは、
人間の本質的な欲求や社会変革への願いを鮮明に表現しており、
その言葉の力強さは、今も色褪せることなく現代に生きる私たちに共鳴します。

太宰治の作品は、常に人間の内面に深く迫り、複雑な感情や生きる意味を
描き出してきました。この名言もまた、彼の思想の集大成といえるもので、
個人としての愛と社会に対する変革の意志が一体となった、生き方に対する
根本的な洞察を含んでいます。

太宰治が「恋と革命」という言葉を残した背景には、
彼自身が生きた激動の時代が深く影響しています。
彼の時代は戦後日本の混乱期であり、人々が個人の自由と社会的な変革を
求めて揺れ動いていた時代でした。
太宰はその中で、自分の内面と向き合いながら、
時に社会の枠組みを超えた普遍的な真実を追求し続けました。

「恋」とは、単に恋愛関係を意味するだけではなく、人間同士の深い繋がりや
感情的な絆を指し示しています。
そして、「革命」とは、社会や文化の変革を象徴しており、より良い未来を
切り開くための挑戦を意味します。
この二つの要素が、太宰治の文学作品においては重要なテーマとなっており、
彼の生涯における葛藤や挑戦が深く反映されています。

「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」という太宰治の言葉は、
個人の情熱と社会的責任の両方に対する呼びかけです。この名言は、
私たち一人ひとりが自己を見つめ直し、同時に社会に貢献する生き方を
選ぶべきだという普遍的なメッセージを投げかけています。

ここで「夢」が物語になった作品を紹介します。

「白日夢」
(はくじつむ)は、谷崎潤一郎の戯曲。全四幕から成る。歯科の治療を
受けに来た青年が同じ患者の美しい令嬢を見るうち、麻酔と昏睡の中で
白日夢を見る物語。1926年(大正15年)、雑誌『中央公論』9月号に掲載された。
1922月(大正11年)発表の戯曲『白孤の湯』と『白日夢』を元に書いた
ヌードショーのレビュー白日夢』は、1959年(昭和34年)2月から5月まで、
谷崎のお気に入り女優・春川ますみ出演で、日劇ミュージックホールで
上演されました。

「古代ローマ貴族の夢」
本作は元来、『ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂の創建
教皇リベリウスに夢のお告げを明かす古代ローマ貴族ヨハネと妻』
(プラド美術館) と対をなしていた。
両作ともローマのサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂の創建にまつわる
物語を表している。古代ローマ貴族ヨハネの夢に聖母マリアが現れ
エスクイリヌスの丘(画面左側の雪に埋もれた部分) に教会を建立せよ、
そして、そこに行けば、雪の上におのずと建物の配置がわかるであろう、
と告げる。穏やかで静謐な場面に光を伴なって現れた聖母は、
円熟期のムリーリョの画風を特徴づける非常に軽く淡い筆致で描かれている。
人物の衣装はムリーリョの時代のもので、画家は絵画を古代ローマに
設定していない。

落語の「芝浜」は三遊亭圓朝の三題噺が原作。三題噺とは、寄席で客から
三つのお題を貰い、それらを絡めて、その場で作る即興の落語である。
ある日のテーマが、「酔漢」と「財布」と「芝浜」だった。
3代目桂三木助は「三遊亭圓朝が作った『笹飾り』『増上寺の鐘』『革財布』の
三題噺」と噺していた。ここから生まれた三題噺がベースとなって、
その後本作が成立したとされているが、『圓朝全集』に収録されていない
ことや圓朝以前に類似の物語があることから、この説を疑問とする声がある。

現在のものとはストーリーも異なっていたという説もある。
川戸貞吉は、8代目林家正蔵からの聞き書きとして、「昔の『芝浜』は、
男が財布を拾った後、長屋の連中が財布を拾ってめでたいってのんで、
みんなで歌を歌って騒ぐだけの話で、軽い話だったよ」と述べているが、
8代目正蔵が生まれる以前に口演速記された落語本では、すでに現在と
同じ人情噺になっている。少なくとも19世紀中には「芝浜」として
演じられた記録がある。

夢か現実か分からない状況での夢物語「白日夢」。
夢に現れたマリアのお告げに従い教会を建てる「ローマ貴族の夢」。
夢か現実か道で拾った財布の大金で長屋の住人に散財をした「芝浜」。

若い頃、私の夢は「日本一のプロデューサー」であった。
毎週業界紙のヒットチャートを賑わし社内でのヒット賞の常連であった。
それなりの努力をしたつもりでいたが、ある時に先輩から
「ヒットはお前ひとりで作れたのか?」と言われた。
会社のスタッフも工場のスタッフも放送局などのメディアの関係者も
レコード店の店員も大勢の人がかかわったことを忘れるなと叱責された。

それなのに周りからおだてられて91年に独立をしてしまった。
そして10年後大失敗をしてから夢から目が覚めた。

それまで手に入れた地位も名誉も財産もすべて失った。
その上に愛する家族までも失ってしまった。
高い事業料を払って人生の勉強をして完全に夢から目が覚めました。


未来はいつも音楽に溢れてる

ここから第三章が始まります。

ゲスト参加(伊丹谷良介)

現在私がプロデュースをしています。
伊丹谷良介をご紹介します。
彼には五つの魅力があります。
「歌手・作曲家~画家~講師(出版)~中国語通訳」
この才能を花開かすために協力しています。

経歴
197311月生まれ。  大阪出身
1987ライブハウスにてライブ活動を開始。19歳の時、ニューヨークに滞在。
帰国後、アジア人を意識したバンド活動、映像製作、美術作品制作を開始。
1992FRIDE EGG JAM(10人編成のファンクロックバンド)結成。東京、横浜、
名古屋、京都、大阪にてライブ活動を行い、CDアルバム『FRIDE EGG JAM』で
CDデビュー
1998宝塚造形芸術大学大学院修士課程終了。バンド活動を停止させ
ソロアーティストとして作詞作曲作業に専念。
1999日本で中国人プロデューサーと出会ったのをきっかけに中国へ渡航。
伊丹谷良介 black dragon elechestra「中華人民共和国 全国ツアー1999」に
おいて、中国にて大規模なロックコンサートツアーを外国人として初めて
成功させる。(天津、常州、蘇州、南京、等 中国北部都市 7ヶ所約4万人動員)

2000昆明で行われた世界音楽祭に日本代表として中国政府より正式招待され、
伊丹谷良介 black dragon elechestra「中華人民共和国 全国ツアー2000」を
成功させる。(上海、昆明、雲南、広東、等中国南部都市10ヶ所約5万人動員)
2002大阪から北京に移り、中国大陸での本格的な音楽活動を開始。
2003中国の実力派ミュージシャンを集め伊丹谷良介チャイナバンドを結成。
中国公演300回記念ライブを上海ARKにて3days行う。読売新聞等、
日本のメディアでも中国での活動がとりあげられる。
上海東方衛視台(衛星放送)の大晦日カウントダウン番組にて、香港のトップスター、
劉徳華(アンディーラウ)と共演。世界4億人の人がこの番組を見る。

2004ファーストアルバム『Hello Mr.Asian』発売。台湾、香港、大阪、
ニューヨークでもライブを行い、香港でのラジオヒットチャートで
”Hello Mr Asian”が7位にランクイン。
2005香港のライブイベント”ROCK ON2005″、香港の人気音楽TV番組等に出演。“Hello Mr Asian Japan tour 2005″公演(大阪・東京)

2006中国の人気実力派歌手・紀敏佳に楽曲「我愛Ni」を提供。
音楽サイトにて1000万件を超えるダウンロード数を記録する。
タップダンサーHIDEBOH率いるリズムパフォーマンスグループ・STRiPESの
香港公演にゲスト出演。“ROCK ON Ten 10th Anniversary”(香港)、
”Hello Mr Asian Japan tour 2006″公演(大阪)
2007『満文軍・北京人民大会堂ライブ』に出演。日本人ロックミュージシャンとして
初めて人民大会堂のステージでプレイする。中国シンセンで行なわれた
「アジア青年芸術祭」に日本代表ミュージシャンとして出演。
CCTV(中国中央電視台)にて全国放送される。

“Hello Mr Asian Japan tour 2007″公演(東京)
2008ライブイベント「JAPAN JAM 2008」にてFRIDE EGG JAM再結成。音楽誌『GIGS』Q-stationに連載開始。“JAPAN JAM 2008″公演(東京)
2009朱孝天(ケン・チュウ)のKEN CHU CONCERT 2009 〜Freedom〜」
来日公演ツアー(東京JCBホール・大阪厚生年金会館大ホール)に参加。
中国大陸モデル出身の男子4人による新ユニット 『風雲組合』(フンユン)の
2009年1stアルバム『風雲』にて 伊丹谷のオリジナルナンバー『ROCK STAR』が『TOP STAR』としてカバーされる。
伊丹谷良介著書「バンドボーカル読本」がシンコーミュージックより全国発売。

ここからトークEVENTが始まります。
私から伊丹谷氏に対して質問です。
① その後の16年間は何をしていたか?
② 何故アジアから活動を始めたのか?
③ 帰国後日本の音楽事情をどう思ったか?
④ 能とロックの組み合わせを能楽堂で2回公演
⑤ 現代の音楽状況(AIとの共存)
⑥ うたライブは何故行なっているか?(ロックサロン+恩学)
歌入り映像「創造」ダイジェスト
本来ならばこのやりとりも文章にしてご紹介したかったのですが、
ご興味のある方は「老人と孫」の事務局へ開催を希望してください。


最後に伊丹谷良介から一曲生演奏を披露いたします。
本日の「老人と孫」たつジイと伊丹谷良介のトークEVENTの話を聞いた
仲間たちが駆けつけてくれました。
冒頭でドラムを叩いてくれたももちゃんと世界をベース一本で駆け回る
葛城京太郎そして長年世界で活躍してきたバイオリニストKATEIを加えて
作詞稲葉瀧文・作編曲伊丹谷良介「友」をご披露します。
この新曲は本日初披露です。「老人と孫」のイベントのために作りました。
お聞きください。

「友」歌詞
友よ 夢はまだ君にあるのかい
友よ その手で愛を掴んだかい
友よ 古い上着を脱ぎ捨てて
友よ 新しい船に乗り込むときさ
LOVE LOVE LOVE LOVE LOVE 友よ
LOVE LOVE LOVE LOVE LOVE 友よ

友よ ざわめきが絶え間ない街で
友よ 自由を奪い返す時がきた
友よ 信じた未来へ乗り出そう
友よ 新しい船に乗り込むときさ
LOVE LOVE LOVE LOVE LOVE 友よ
LOVE LOVE LOVE LOVE LOVE 友よ

溺れる子供を救いたい
君はいま何ができるのか
この地球(ほし)を
限りなく愛してる
救う命があるはずさ
LOVE LOVE LOVE LOVE LOVE 友よ
LOVE LOVE LOVE LOVE LOVE 友よ
LOVE LOVE LOVE LOVE LOVE 友よ
LOVE LOVE LOVE LOVE LOVE 友よ
LOVE LOVE LOVE LOVE LOVE 友よ

「老人と孫」トークEVENT「未来はいつも音楽に溢れてる」終了です。
本日はお集まりいただき有難うございました。
当日の内容はSNSに溢れていますのでご覧になってください。

いつまでも感動の拍手鳴りやまず。最高でした!
お客様、スタッフの皆様、有難うございました。
皆様との再会を楽しみにしています。


未来はいつも音楽に溢れてる

第二章が始まります。

音楽は娯楽ですか?ハイ!そうですと言いながら
でも医療行為ですと答えています。
モーツァルトはてんかん、ベートベンは鉛中毒、ハイドンポリープ、
シベリウスは社会不安の障害を抱えていたのですが
みんな病を癒すために曲を作っていたと言われています。
いわゆる音楽療法です。音楽はそれほど医療に対して効果があるのです。

感動とは、感動は「空間認識」である。対象物と自分の間にある空間で起こるのです。
直接受けた印象に自分の心境を重ねて心が振動した時に感動になるのです。
クラッシックのコンサートホールはその空間を大切にして作られています。
それでは空間がないとどうなるのでしょうか?
すし詰めの電車の中で感動は起こるのでしょうか?多分感じて動くことは
起こらないのです。その空間で重要なことは目に見えない波動です。
恋愛の最初にビビッと感じた!は空間で起こる認識です。

若い人に好きな音楽の話をしたらすぐにアーティスト名を入れて
YouTubeで見始めます。最近の若者たちは2倍速で聞き、アーティストの
雰囲気を見て聞いてフォロワー数を見る。音に反応ではなく記録に反応するのです。
現在は、音楽はモバイルで再生するのが主流になっています。
世界的に見てもCDの再生プレイヤーを持っていない人の方が多くなっています。
これはレトルト料理を食べて本物を食べたと錯覚しているのと同じになります。

マーケティング手法にAIDMAからAISASというのがあります
attention(知らせる)interesting(興味)desire(欲望)memory(記憶)
action(買う)→ Search and share(検索・拡散)
この流れを知っていることは重要です。
それ以外にも、
エバレットMロジャー「イノベーター理論」、マズロー「五代欲求」、
ハーバードビジネスレビュー「ブルーオーシャン」、エリックリース
「リーンスタートアップ」など沢山の教科書があります。
しかしどう解釈するかの答えはありません。
実例が無いと普通の人には理解しにくいのです

「未来はいつも音楽に溢れている」生成AI一辺倒からアナログな世界観が訪れる。
何もかもコンピュータを取り入れたことで便利になったが、その便利さは
必要でしょうか?なになに風と入れれば文章もデザインも写真も音楽も
作られる時代です。本当にメタバースの世界で暮らしたいのでしょうか?
人とのコミュニケーションも便利にして何が残るのでしょうか?

以前から、音楽を通じていきたい場所があります。
アフリカのバカ族という歌しか持たない少数民族と中国雲南省には歌声で愛を
交信する部族がいるということですので死ぬまでには行きたいと願っています。

私は世の中が右を向けば左を向いて生きてきた人間です。マジョリティーの
波が嫌いでマイノリティー波に乗るのが好きでした。
惰性も嫌いでアーティストが売れて安定したら担当を部下に譲っていました。
本当に自分の感性を大事にするために一匹狼的生き方で過ごしてきたのです。
若い人に見習えとは決して言いません。
誰でもやりたいことをやって好きに生きたほうがいいのに決まっています。

私は音楽プロデューサー以外にマーケティングのセミナー講師です。
過去に大学、市民講座、経営者の会、アパレル勉強会などで実績があります。
しかしコロナがスタートした3年前から依頼が突然無くなりました。
今はほとんど無収入です。しかし復活します。そうして人生を乗り越えてきました。
お金のある時にはお金のある暮らしを楽しみ、貧しくなれば貧しく暮らす。
それだけです。人生なんて深く考えて悩む必要は無いのです。

今は経験と知識を組み合わせたブログ「恩学」を始めて10年が過ぎました。
現在、600作以上の投稿になりました。それに加えて昨年末から毎朝
「一日一枚・一日一言」を投稿しています。
今朝も投稿を済ませて参りました。本日の言葉は「則天去私」です。
夏目漱石が晩年に理想とした境地「私心を忘れて天に従う」です。
四文字熟語から始まるショートストーリーです。朝の最初に見た文字は
記憶に残るから不思議です。良い波動を受け取ってくださいね。

私の経歴「レコード会社~独立~倒産~PC派遣会社~韓国映画~中国~アパレル」
英国へ遊学(何かをしなければならない~手探りの状態)
CBSSONY入社(電話で飛び込む~活躍の場~録音~宣伝~制作17年間)
数多くのアーティストとの関わりかた(彼らは何者か?)
コンピュータが導入されてつまらなくなった(作る興奮がなくたった)
プロデューサーとは(情報・分析・行動・決断)(独自のスタイル)
プロデューサーの時代が終わる(素人でも音楽が作れる)
韓国や中国へ単身乗り込む(映画会社~女子十二学坊)(中国投資失敗)
75歳になっても現役(自分の人生絶え間なく挑戦)
現在に至る(孫世代へ伝言)「SNS・AIに時間を奪われるな~危険な時代」
「昔は白紙の時代~現代は形と通信の時代(孤独)~経済優先(金持ち思考)」
「自分の身の置き場~精神状態~大袈裟に考えるな!~手放す勇気」

現在、高齢者の支援団体、専門学校、環境団体、海外文化交流団体、
北海道地域支援団体、新規事業団体、その他の理事を受けております。
これらは全て無給のボランティアです。
老人としての役目が果たせることが出来ればとお引き受けしました。

私の本職は音楽プロデュースとセミナー講師です。
お声がかかればどこにでも行きます。私の経験が少しでもお役に立てれば嬉しいです。
こちらは有料になります。

それでは第三章をお楽しみください。


未来はいつも音楽に溢れてる




3月8日(土)晴れたら空に豆まいて
老人と孫イベント

私は本日過去の自慢話をするつもりはありません。
ただ記録としてお伝えするだけです。
振り返ると全てが縁のつながりから生まれたものばかりです。
打算的ではなく好き嫌いでなく心が感じることを優先しました。
お!心で感じる月並みの答えだなと思われる方も多いかと思います。
それは後ほど詳しくお話をします。

最初にお伝えしたい言葉として「無理は自分で決めた決断」です。
私が工業高校から外国語大学に入った時も、英国から戻りCBSSONYに
入社したのも、アルバイトから制作プロデューサーになったのも、
一般から考えるとあり得ない話でした。
日本の音楽業界へ私がプロデューサーという定義付けをして時代を切り開いたのも
普通に考えると「無理なのです」。

本日参加の若い人に言います。常識で考える「無理」は自分で壁を作り
挑戦から逃げているのです。無理は逆風です。その逆風に乗ると浮かび上がるのです。
有名にも成功者にも簡単になれるのです。そんなチャンスを無駄に捨てているのです。
嫌いなことに時間をつぶすより、好きなことにもっと時間を費やしてください。

私はオーデションに来たアーティストに必ず聴くことがあります。
「好きな音楽と良い音楽と売れる音楽」どの音楽を目指していますか?
これはアーティストがどれを選ぶかが重要なのです。
①好きな音楽と応えた人にはアマチュアでやればいいんじゃないですか?
➁良い音楽と応えて人には音大や専門学校へ行って楽典を学んだらいかがですか?
③売れる音楽と応えて人にはプロデューサーの言ったことは全部従ってくださいね!
と伝えています。

そして「目標と目的の違い」を聞きます。意外とこれに応えられる人は
少ないのですがスターになる人は必ず答えられます。
矢沢永吉も松任谷由実も正しく答えてくれました。
その答えは誰もが知っている「うさぎと亀」に答えがあります。

最後に目標としているアーティストはいますかと聞きます。
その人の何が好きで何に憧れますか?シャウトする歌い方ですか?
弾き語りですか?作詞作曲ですか?それとも音楽性ですか?
それをどれぐらい自分に取り入れていますか?
学ぶは真似るという言葉を知っていますか?
最初はコピーして成り切ることです。そして認められてからオリジナルで
勝負します。それが完成すればレコード会社へ売り込みに行きます。

プロデューサーは売り出しのアーティストを抱えている時は、
そのアーティストのセンス(洋服や持ち物)を自分に取り入れます。
新聞・雑誌・放送局などへプロモーションに行く時印象を強めるためです。
矢沢永吉にも浜田省吾にも久保田利伸にもなりきって行きました。
しかし唯一の例外はおニャン子クラブの時です。さすがセーラー服を着るわけにも
いかず派手なジャケットを着て挨拶回りをしました。

私は音楽業界で初めてマーケティング手法を取り入れたプロデューサーです。
売るためには勢いだけで無く戦略を練って段階的にアプローチをしたのです。
「いちご白書をもう一度」の場合は、
① 大学の映画研究会へ手紙を出して再映推進委員会を設立して
話題作りをしました。委員長は稲葉瀧文です。
➁ 雑誌者を周り、掲載された記事を持って深夜番組に行き毎晩
曲をかけていただきました。
特に文化放送のセイヤング担当の谷村新司さんと
オールナイトニッポンの吉田拓郎さんにはお世話になりました。
② リクエスト順位が上がったところでテレビ局を周り歌番組出演のお願いをします。
CXのヒットスタジオはヒットには欠かせない最強の歌番組です。
④ 最後に映画配給会社ヘラルドへ行き再映の許可を取り付けて鑑賞会を
開催した頃には曲は大ヒットしていました。
⑤ 最後に大手代理店へ行きCM出演の依頼をして完結です。

私の強みは北海道から沖縄までのプロモーションマップを作ったことです。
全国各地の新聞、地元紙、放送局ディレクター、レコード店の店長名、
有線放送局の担当者の名前を書き出してアーティストによっての売り方の
戦略を変えていました。電話一本でお願い出来る状態にしました。
このプロモーションマップを沢山の人が欲しがりました。
それぞれのアーティストの売り出し秘話はまた機会のある時にお話しします。

こういう話を聞いたことがありますか?
白物家電は広島から、お菓子と家具は愛知から、クラッシックは青森から、
歌の上手い人は札幌から、ブルースは大阪、ロックは博多からという
ヒットキッカケの拠点です。これを知っておくことも戦略を組み立てる時には
とても重要です。

先ほどの話「心はどこにある」の続きをします。
日本には人それぞれによって「心」の位置が違います。
はたして心は心臓にあるか?頭にあるか?腹にあるか?
文化人は心臓で、知識人は頭で、武士道は腹で心を捉えます。 
文化人は大切なことは湧き上がる情熱だと胸(ハート)を叩きます。
知識人は「知先行後」「知行合一」と言いながら頭を指して言います。
武士は腹をくくれ、腹に力を入れろ、腹に落とし込めと丹田を指します。

そして皆様は音をどこで聞いていますか?耳ですか?
耳はただの集音装置ですよ。最初に入った音を脳が判断して好きか嫌いか
心地良いか不愉快かを判断するのです。その時に脳にある司令塔が素直に判断するか、
世の中がこう言っているからこれは良い音なのだと情報を元に判断して
しまうことです。

そして脳は錯覚の臓器であることを覚えておいてください。
ピアノの音、バイオリンの音、ギターの音、皆さんは周りの人と
同じ音を聴いていると錯覚しているのです。しかし違うのです。
ただ認識がそう捉えているのです。どんな時にも他人の評価など気にせずに
自分の音としてお聞きください。

例えば歯の治療で歯医者へ行き消毒液の匂いを嗅いだ途端に痛みが
取れた経験はありませんか?これは脳が錯覚しているのです。
頭痛薬や打撲などの痛み止めの薬は患部に聞いているのではなく
脳の痛みを感じる部分を麻痺させるのです。痛みが取れたという時は
脳が錯覚をしているときのことを言うのです。

第一章はここで終了です。


老いるとは




若い時には想像もしなかったことが起きます。
日常の意識の中心は身体のことばかりになり、
思うように動けない、階段が怖い、トイレが近いなど
特に外出時には気になります。
その上に記憶が曖昧になりハッキリとした思考になりません。
好きなことや美味しいものにまで興味がなくなり、
考えるのは老後の不安ばかりで虚ろな日々になります。

私は大の病院嫌いでしたが身体の不調を解決するために3回施術を受けました。
キッカケは海外出張です。単独でアジアの市場開拓に出かけるために
身体にある不具合を3か所切り取りました。
鼠経ヘルニア切除・腸内ポリープ切除・前立腺切除です。
それによって思うように動けない、階段が怖い、トイレが近いなどの
症状が改善されてコロナ禍に3回もカンボジアへ出かけました。

記憶に関しては毎朝ブログを書いているので心配はしていません。
日課の読書も欠かしたことはありません。
それ以外に毎朝ストレッチ運動を40分ほど行い、ウォーキングを1時間。
電車やバスもなるべく利用して遠回りをして足腰も鍛えています。

脳と身体の健康は個人で改善しなければ解決方法がありません。
むやみやたらにサプリを飲んで高額な漢方薬を飲み健康自慢する人と
私を比べたら姿勢の良さと歩く速さに驚かれます。
それと一番の改善は「贅沢を廃止」したことです。
自戒を込めてこの方法を取り入れました。

高齢者には絶対にお勧めします。若い時には暴飲暴食でも内蔵機能が
元気なために気になりませんが、年齢を重ねると贅沢品が心と身体に
悪いと気づきます。粗食にすると驚くほど健康を取り戻します。
「老いるとは足し算ではなく引き算である」ことを肝に銘じることです。

臨済宗「悟り」について
お釈迦様は八十歳で入滅なさいましたが、クシナガラで涅槃に入ろうと
旅を続けておられる時に、喉が渇いてもご自身が川まで行けない程に
老いておられました。やはり、お釈迦様もお年をお取りになったのです。 
中国の漢詩に『少年老い易く学成り難し』とありますが、
老人となって初めて、なにも成していない事に愕然とします。 

しかし、年を取らないとわからないこともあります。
本当に人間は、病気でも怪我でも災害もその時にならないと
本人が心から認識しないものです。体の何処か痛くてたまらない、
思うように動かない、若い時には想像もしなかった身体の老いです。

老いた時に体も心も固くなる人と、
体は老人だけどでも心は、柔らかい人がいます。 
不思議なことに老人になると、個人差が大変開きます。
同じ年齢なのに体も心も人によってかなり違います。
どうしてでしょうか。体も老い、心も気持ちも頑固になって
人の言うことを聞かない人。

それに比べ、心爽やかな、年輪を感じる人もいます。
自分が老人になって、心が傲慢に独りよがりなっていないか。
人の親切な忠告をよく聞けているか。正しく物を見ているかと。
自分が自分自身に気づいているでしょうか。

臨済宗の悟りは、気づくことです。自分が自分に気づく。
何歳からでも良いから自分の周りに自分以上のもっと大きな存在があって、
自分はそれに生かされ、生きている事に気づく。
心静かにおかげさまを感じながら感謝や仏心を持って、暮らしたいものです。 

しかし、年齢を重ねたのに仏心に気づかず、気も止めないで現実の
お金や物に振り回され、波の様に押し寄せる情報に右往左往して
おられる方もおいでになります。『人間の寿命は有限です。
でも、人間の幅を増やすことは無限に可能です。
有限な人生を無限に生きるためには、人間の幅を広げることです』

そしてその窓口は、皆様の菩提寺ですし、本山や菩提寺のご住職なのです。
どんな仕事もプロが要る様に信心にもプロがいます。
プロのご住職に聞きましょう。スマホやネットでは無く、参拝しお寺で
心の幅を広げましょう。ご住職は、法事やご葬儀だけで無く、
一人でも多くの人に禅を伝えようと日々貴方を待っておられます。
年を取って、残された時間を思う時、大切な時間を信心に割きたいものです。

私は今年76歳になります。
色々な企業やNPO法人などの理事を務めております。
ほとんどがボランティアなので収入はありません。
しかしお声がかかれば必ずお引き受けさせていただきます。
私を必要としてくれる方がおいでになるというのは有難いことです。
私の願いは人に役立つことが一番です。
それにこたえるためには心も体も健康でなければなりません。

そして現役のプロデューサーとしても活動を続けています。
若いアーティストの才能を見つけ出し育てることが生き甲斐です。
音楽の捉え方、生き方、情報発信性、メッセージの時代性などと
時代にぶれない心構えを教えています。

現在ロックシンガーの伊丹谷良介のプロデュースを手掛けています。
76歳のプロデューサーが51歳のロックシンガーを世に出そうとしています。
音楽業界初の出来事です。ヒット曲が出ればギネスに認定されると思います。笑い

昔、20代の時に矢沢永吉の担当をしていました。
コンサートや取材の時に、
矢沢は「60~70になっても武道館でコンサートをやる」
この一言に自分も「60~70になってもプロデューサーをやる」と
言った覚えがあります。
当時はロックアーティストの限界は30代までと言われていました。
勿論、音楽プロデューサーの限界も40代までと言われた時代です。

2人ともいまでも現役でロックシンガーとプロデューサーで活動しています。
勿論、矢沢と同列におくのはおこがましいのですが、
私も矢沢も1949年生まれの76歳です。昔では考えられない年齢です。
しかし上には上がいます。
英国のロックバンド「ローリングストーン」は80歳越えの現役です。
現在世界ツアー中です。新曲も発売されました。

米国の詩人サミュエル・ウルマンの「青春」に書かれている言葉です。
「人は年を重ねたから老いるのではなく情熱を失った時に老いる。
20代の若者でも情熱を失った時に老いていることになる。」

現在、様々な団体の理事をお受けしていますが、その中でも最近特に
力を入れているのが「世界動物かんきょう会議」と「老人と孫」です。
未来に生きる子供たちに美しい環境を残すために、
未来に生きる子供たちと平和を一緒に作り出すために、
培って来た経験と叡智をそして人脈を惜しみなく提供するつもりです。

私は老いてますます盛んです。
常に未来に目を向けて生きています。


この世とは




あの世(死後の世界)とこの世(現生の世界)
あの世を知るためには仏教を学ばなければなりません。
この世を知るためには哲学を学ばなければなりません。
この二つの世界を行き来するには感知能力が必要です。
多くの学問は文字を見て覚えることから始めます。
感知能力は何もしないで座ったままでするのです。
禅の世界の「只管打坐」は余念を交えず、ただひたすら座禅することです。

我々人間が現在暮らしていると思っている(認識している)世界、
または、その認識。日本語では「顕世(けんせ)」とも読み書きし、
「この世」とも言い換えられる。
仏教用語としての「現世」は「げんぜ」とも読む。
自身が輪廻転生していくなかで今生きて属している(生を受けた)
この世界のことを指す。彼岸に対する此岸。
現世に対置される世界としては、仏教では、前世、来世(それに加えて
地獄が語られることも)。

神道では常世・常夜(とこよ)、幽世・隠世(かくりよ)などがある。
キリスト教では、天国、地獄(陰府)などがある。
神道では「現世」と書いて古語としては「うつしよ」と読み、
この世や人の生きる現実世界を意味する。それに対峙して、
常世(とこよ)いわゆる天国や桃源郷や理想郷としての神の国があり、
常夜(とこよ)と言われるいわゆる地獄としての死者の国や黄泉の国と
捉えている世界観がある。

ただし、常世と現世として二律背反や二律双生の世界観が基本であり、
常世・神の国には2つの様相があり、このことは常世(常夜と常世は夜と昼とも
表される)が神の国としての二面性を持つことと、荒ぶる神と和ぎる神という
日本の神の2つのあり方にも通じるものである。

古神道の始まりといわれる神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰の森林や山・
岩などの巨木や巨石は、神の依り代と同時に、籬は垣(かき)の意味で磐座は
磐境(いわさかい)ともいい、常世と現世の端境を表す神域でもある。

神社神道においても鎮守の森や植栽された広葉常緑樹は、神域を表すと同時に
結界でもあり、常世(神域)と現世の各々の事象が簡単に行き来できないように
するための物であり、禁足地になっている場所も多い。

また、集落につながる道の辻に置かれる石造の祠や道祖神や地蔵なども、
厄除けや祈願祈念の信仰の対象だけでなく、現世と常世の端境にある結界を意味する
といわれる。現世における昼と夜の端境である夕刻も常夜との端境であるとも
考えられ、この時分を「逢魔時(おうまがとき)」といって、
現世に存在しないものと出遭う時刻であると考えられている。

仏教における「三世」の一つであり、前世、今世、来世 のうちの今世に該当する。
また、時間的な前後は別として、浄土教では「厭離穢土・欣求浄土」の概念がある。
「穢土」とは「穢(けが)れた世」という意味で、現世にあたる。
『金剛般若経』では「一切の有為の法は、夢幻泡影の如し」とあり、
現世を夢幻、泡のように儚いものとして把握していたことが窺える。
このように仏教では現世を否定的に捉えていた。

長岡美妃医師投稿
「この世」は、なんて掴みどころのない世界なんだろう・・・。
真実は目に見えず、耳で聞こえず、鼻で嗅ぐこともできず、
舌で味わうことも触れることもできない。
まるで雲の中にいるような輪郭のない世界、それがこの世界。
灼熱の砂漠で見える蜃気楼を実在と思い込み、有りもしない存在に
右往左往されながら生きる人間模様。

自分が見ているものに真実は一切ない。正誤、善悪は元より、
生死を分つ存在すら実在ではない。
雲のように、あったと思った次の瞬間それは消えてなくなる陽炎。
人生は長い旅路だと言うが、そんなものは瞬間の点のような出来事である。
そしてその点すら、実在ではないのだ。

人は世界の儚さを無意識深く知っているが故、
執着という接着剤で世界を確かなるものにしようとする。
しかし実在なきものを止めようとする行為は、
四苦八苦を人に与える結末になる。

いつまで人は四苦八苦のループの中を彷徨のだろうか・・・
それは人が「世界は実在ではない」ことを見抜く眼を開くまでであろう。

時代が人類にwake up callを投げている。
VR-AR-MRを人々が当たり前のように使い始めた時には、
どんなに現実にしがみつきたい人々も
「世界がコンピューターシミュレーション」
となんら変わらないことに気が付くだろう。

「実在でない世界を、実在以上の奇跡として思いっきり生きていけ!」
これが未来世界の合言葉!

如何でしょうか?
消化器外科医長岡美妃は医師と言う立場の中で常に人間の行く末を考えている。
そして令和の哲学者は「世界は実在ではない」と言い切る。
実在の反対は架空である。架空は実在しないことを意味する。
令和哲学主宰者ノジェス氏(来日29年)と共に歩む。
令和哲学カフェ、アモールファティ、BEST BEINGなどの活動を行い、
日本文化の意識から世界を変える活動を行っている。

私も私塾で「恩学塾」「男塾」「経営塾」などを開催したことがある。
今でも「恩学」のタイトルでブログを発信している。
この世に生があるうちは書き続けようと思うが間もなく666作になる。
ときおり全国の読者からお褒めの言葉をいただくので終了のタイミングを失った。

昨年末からは「一日一枚・一日一言」を毎朝投稿している。
土日も休まず投稿しているのですでにあっという間に70作を超えた。
老人が出来る最後の御奉公だと早朝に文章を書いている。
夜と昼の結界の時間である。

本日の「この世とは」いかがだったでしょうか?
あの世を知ってこの世を大切にお過ごしください。


脳は錯覚の臓器である




五感で認識すること全てが真実の出来事と勘違いをしている。
自分の意識を中心に見るもの聞くもの味わうものは直感的で現実だ。
しかし多くの人は教育で受けた人間の意識を元に全てを判断する。
たとえば「羞恥心」という言葉がある。
恥ずかしいという意識はどこから生まれるのだろうか?
江戸時代は一般の風呂屋で男女温浴は当たり前の風習があった。
女性が裸を見せることは「羞恥心」の領域では無かった。
勿論、武家や商人の金持ちは自宅風呂だったので人前で裸になることは無かった。

国や宗教や民族の掟からそれをしてはいけないという戒律がある。
イスラム教では女性は顔を覆い尽くすヒジャブを被り男たちの奴隷になる。
12歳を超えたら女子の教育は禁止される。日常会話と計算ができれば終わりである。
この掟を破ると街中で男たちに囲まれて鞭で叩かれる。
我々の常識から考えられない国が存在していることを知るべきである。
その真実を、その映像を見なければ脳には何も影響がないが
知ってしまったところから脳が勝手に判断をする。イスラム教徒は野蛮だ。

学校の教育で受けた知識が体を縛り付けて自分の意識と違うところで行動する。
自分の意識は自分で見つけなければ人間社会からはじかれる。
この意識が見つけられないからいつしか周りに流される人生が始まる。
一番恐れるのは怒りの発散する姿が想像をできないことである。
脳が「争いから生まれる解決方法はない」と勝手に制御するから、
無能な国会議員たちの不正の怒りをどこにぶつけて良いのかが分からず
民衆は財務省の前で右往左往するだけになっている。

ゲシュタルト崩壊・・・女性医師長岡美妃
バリのウブド、ベリーダンスのリトリートでの出来事だった。
「鏡の前で一番セクシーな顔、セクシーなポーズをして立つ。
そして5分間、その顔を見つめなさい。」

はじめは恥じらいや照れ臭さが脳を占めていたが、時間が経つにつれ
その考えに留まっていられなくなっていく。
そして鏡の中の自分を見つめることへの集中が高まる。2分経過、3分経過、
脳は私の姿形の全体像を捉えられなくなり、目の前の私が私ではなくなっていく。
「あなた、誰?」こちらをじっと見つめる鏡の中の私に尋ねる私がいる。
この時がデカルトの言う「我思う、ゆえに我あり」の我がベールを
潜って出てきた瞬間なのだろう。

小さな身体が私だと思っている。また小さな身体の中から世界を見ていると
思っている。しかしそれは錯覚であり、自分の身体を含む世界、
それを見つめている意識だけがあった。
世界とは鏡に映し出された模様であり、言語機能を持った
意識は鏡の中の模様を切り取り、各々に名前をつけて分割していく。

では「世界を映し出している鏡とは何か?」である。
意識が鏡を見つめている、と言ったがそれは本当だろうか・・・
いや、そうではない。それもまた錯覚であり、実は鏡そのものが
意識だったことに気づく。鏡に映る存在の最小単位の点が眼であるかのように、
存在の深淵から世界を観ている。つまり、意識即存在、存在即意識なのだ。

こうしてみると人間は幾重もの錯覚に陥っていることが分かる。
この深い錯覚世界の中では、自他の分離があり、身体の私がいるという
強烈な思い込みが起こる。
その為、私という存在は存在孤独と存在不安に陥るのだ。

大雑把な五感覚と言語のトリックを見破る時、人間は錯覚から
目覚めることができる。その為には「存在の最小単位」=「言語(要素命題)の
最小単位」を知ることなのだ。

21世紀になった今、その新学問が完成した。
それこそ、私たちがBest Being塾で伝えたい「認識技術 nTech」なのだ。

視覚で捉えたものを脳が認識をして判断する。
全ての人が同じ対象物としてとらえているわけでは無い。
信号機の赤や青・黄色も色盲の人には違う色に見えているだろうし、
虹の色も我々は七つと教えられているので七色の虹と認識するが、
海外では五色に見えたり、三色にしか見えないということもある。

言語も同じように脳で捉えるのだが発音によって感情の錯覚がおこる。
初めて韓国や中国へ行った時にこの国の人達は不機嫌な人ばかりだと勘違いした。
韓国語のパッチムの発音はとげとげしく、中国人のところ構わずに大声で叫ぶ
声は五月蝿いだけであった。
逆に海外の人達から見たら日本人はみなひそひそ話で、他人の悪口を
言い合っているように見えるらしい。

脳は一定の情報量で判断するので教育や暮らしの中から得たデーターで分析をする。
これは人工知能AIと同じである。過去のデーターの分析で判断するから
認識が間違うと危険な答えが出てきてしまう。
アメリカで空港や政府機関の出入りに顔認識機能を取り入れたところ、
白人より黒人の方が、警告音が出てしまうという統計が出された。
白い肌は安全で黒い肌は危険と認識しているからである。

人間の能も同じように統計的の答えを出してしまうのだが、
科学者や芸術家や設計者は統計に逆らえる能力を有している。
自分の能に知識より感覚で捉えることを優先させているからである。
SNSを頻繁に見ている若者たちや一般人はフェイクと分かりながらも
いたずらに拡散してしまう。脳がうける話に逆らえないからである。
常識ある大人は自分の興味のないところに手を出さない。
子どもは欲望でモノを欲しがり大人は必要なものを欲しがる違いである。

子どもがおもちゃ売り場で駄々をこねるのは本人の欲望を訴えたら
親がそれにどう反応するかを経験値として取り入れているのである。
これが成功すると子供は我儘なままに育ってしまう。
デジタル社会になり子供たちが簡単に犯罪や薬物や詐欺行為に加わるのも、
謝れば大人は赦してくれると勘違いしているからである。

脳科学者中野信子
「残念な脳」というのは、学校の成績や学歴とは別な問題です。
もちろん、ある程度は個人差もありますが、知性とは何か、もしそれを得たいと
思ったなら、どうすればいいのか・・・
退場な脳を持った私たちには、一生の課題かもしれません。

書いてあることを正確に読み取れないのも、快楽に溺れて冷静な判断ができなく
なるのも、たしかに「能のせい」ではあります。努力すれば改善するかというと、
もちろん限界もあります。これは、必ずしも「あなたのせい」とは言い切れない。
努力できるかどうかも人によって差があります。
そもそも人間には、毎日毎日24時間努力し続けるということは難しい。
努力し続けることが寿命を短くする可能性さえ指摘されているくらいです。

どんなに恵まれている人でも、天才でも、富裕層でも、脳内における快楽の仕組み
というのはそう変わらないというのはある種の福音かもしれませんね。

苦しい時にはだれでも苦しい。幸せな時にはだれでも幸せです。客観的な
物質の多寡にはよらず、脳内の化学物質のダイナミクスで決まるものですから、
外から見た境遇と、内的に感じている幸不幸は一致しないこともしばしばです。

「脳は錯覚の臓器」である。錯覚しないように注意して下さい。


うたライブ自然




「自然」がテーマの時に伊丹谷良介と新曲の話し合いをしました。
その中で初めてライブでカヴァー曲を採用しました。
我々がこれしかないと選んだ曲がボブディランの「天国の扉」でした。
私の友人が環境問題を取り上げた一冊の本を出版したことも大きな要因です。
その本のタイトルは「どうぶつに聞いてみた」アニマルSDGsです。
人間の暮らしをよくするために自然界ではたくさんの犠牲が払われています。
その商品を製造販売している会社も購入している消費者も同罪です。

昔から善い人は天国へ悪い人は地獄へ行くとされていますが、
本当に我々現代人は天国へ行く資格を持っているのでしょうか?
西洋的な考えの天国ヘブンと東洋的な考えの涅槃(ニルバーナ)です。
偶然ですが、この歌は伊丹谷良介が高校生の時に初めて覚えた曲と、
私がロンドンの地下鉄で歌った曲もこの「天国の扉」でした。
今回は作詞家である私が日本語詞とナレーション文章を担当しました。

昔は死ねば誰でもが天国に行けるという定説がありました。
それが人類は自然界から受けてきた恩恵を忘れてしまい、
我が物顔で大地を掘り返し森林を伐採して地下の資源も使い果たしてきました。
その上に多くの動物を殺して食糧や衣服として使用して、用がなくなれば
燃やしてしまうという愚行を繰り返しているのです。
我々の快適な暮らしは多くの自然界の犠牲から成り立っています。
あらゆる犠牲に対して謝罪も感謝もなく搾取つづけているのです。
このままじゃいくら祈っても神様は天国の扉を開けてくれません。
いくらノックしても天国の扉は開かないのです。

毎回ライブ終了後のアフタートークでお客様と対話をします。
今月のテーマ曲はいかがだったでしょうか?から始まります。
伊丹谷良介のロックサロンはメッセージと歌声による対話の場です。
この日は中国の仲間たちも多数参加してくれました。
右脳と左脳を大いに刺激したことだと思います。歌声には国境がありません。
人々の心にも国境が無いのです。そして鳥たちにも国境は無いのです。
この活動を日本から中国へと広めていきたいと思います。
何故なら日本文化のルーツは中国にあるからです。「恩」は返さなければなりません。
ジエッカさん、ざやさん、ちょうくん、しゅうさん、お友達に拍手をお願いします。

日本の伝統文化と自然
日本の伝統工芸には西洋工芸にない異質性があります。
純化され切った感、突き抜けた感、浮揚した感、超自然感・・・。
理屈では説明できないなんとも言えない特殊性が宿っています。
それは数学的な世界観がベースの西洋人には「何か得体の知れないもの」
として伝わっているように思います。

実際欧州に住んでいて分かるのは、「日本」の立ち位置は、かなり特殊である
ということ。欧州人には神秘的に写っているということです。
ではどうしてそこまで違って写るのか。哲学的に分析するなら、
やはり「人・文・知」のあり方の違いではないでしょうか。
西洋知と比較して、明らかに日本知で際立っているのは、自然との「対話」の
在り方ではないでしょうか。日本の方が自然との距離が近い、逆に西洋は理性
(アカデミズム)を介在させる。日本知には体系化された座学はない。
実感ありきである。

そして工芸単体では成立せずに、生活様式の美しい在り方の追求に
捧げるためのものである。この生活様式の美しい在り方の追求したもの、
西洋的にいうなら「美学」が、茶道、華道、書道、そして武士といった
「道学」である。そしてこれらの統合したのが宗教であり、それは向こう側への
世界に繋がるための方法。いわゆる彼岸の世界、桃源郷、真美真実の宿る世界。
超自然が、この「向こう側」で西洋と日本では大きな違いが生じます。

一般的に寺院建築は、普通「反り(そり)」屋根ですね。
反りの反対は、桂離宮の屋根で有名な「起り(むくり)」屋根です。
自然の風景の中に荘厳さと風格(安定感)を創り出す建築手法です。
もともとは中国の寺院から起こった建築様式です。

古代の音楽を追求すると自然界の物で石や木を叩くから始まり、
幽玄的な音を作るために太鼓に皮を張り叩き、響板に絹糸を巻き付けて弾き、
竹に穴を開けて吹く、そこに人間の声が重なり、日本の音楽が始まったと
思われます。幽玄的な舞も取り入れた雅楽の始まりです。
ルーツは中国大陸や朝鮮半島からきた演奏スタイルです。
そして西洋科学が理論的に音色を創り出し多くの楽器を生み出してきたのです。
特に金管楽器のホルンやチューバ・フルート・トロンボーンなどです。
それは宗教的であり一部の貴族たちのための娯楽として取り入れられてきた。
しかし一部は戦いのためのマーチとして世界中の軍隊が取り入れたのである。

先祖代々自然と共に歩んできた先人たちの想いが西洋文化に侵食されて
近代化という化け物の中に取り込まれてしまったのである。

先日友人のエンジニアと話をしていて驚いたことがある。
最近の若者はレコーディングという作業を知らないというのです。
スタジオにミュージシャンが集まって譜面を見ながら一斉に音を出して
作ることは過去の行為であると思ってしまっている。
その為にスタジオミュージシャンという職業も無くなってしまった。
自宅録音で簡単にグループ演奏が作れるというからである。

他人とのコミュニケーションが無いので気が楽だというのです。
その上にお酒の飲めないロックアーティストも増えてきました。
ロック本来の姿は社会や体制に対してメッセージを送ることでした。
世間から異端児扱いされてきたロックアーティストはいなくなってきたのです。
コンピューターによって一流の音がフリーソフトで提供されているので
古い精神論から蘊蓄を垂れるプロデューサーは不要になったのである。

1987年ごろに音楽の世界にコンピューターが入り込み大幅に録音スタイルが
変わりました。人間の判断は不要になり全てメモリー任せで行われてきたのです。
しかし音楽のスタイルは変わっても人間の心までは変えることは出来ませんでした。
田舎くさい韓国のドラマや、祭事用に使われてきた中国の民族楽器が、
日本でこれだけのヒットになったのは何故でしょうか?

私は究極の素人なのかも知れません。専門家の人たちが勧めるものを
全て鵜呑みにして信じることができないのです。
自分の目と耳とで確かめなければ取り入れることはしません。
韓国で映画配給会社をつくり中国で音楽事務所を作り、そこでも
ヒット作品を生み出したのです。

人間は頭も使い、心も使い、言葉も使い、道具も使います。
自然界はもう我慢の限界です。
動物たちも生態系を壊されて人間の生活圏に近づいて来ています。
27年前から世界動物かんきょう会議というチームがあります・
「アニマルSDGs18番」動物思考によるサスティナブライフデザインを
考える時期に来ています。
私はそのチームの役員として活動を開始しました。
伊丹谷良介とともに音楽による貢献を果たすつもりです。
私の経験が活かされて世界に「We are the one」を鳴り響かせてみたいと思います。


青年への教え




ある若きバレリーナに対しての助言より

言葉の重みを感じる大人になりなさい!
言葉を大切にする人は良い言葉の重みを感じる事ができる
しかし言葉に鈍感な人は良い言葉を聞いても羽のように軽い
重みを感じる言葉はいつまでも心に残り忘れることはない
重みのある言葉をいくつ言えるかが成熟した大人の証なのだ
バレエも同じように上手な人ほど重力を感じている
何故か下手のバレリーナは技術に捕らわれて重力を無視する
重みを知っているからこそ鳥のように舞う事ができる
我々は地球の上に暮らしていることを忘れてはならない
尊い重力の中で生きているのだから

生きる目的!
人それぞれだから他人が言うことを気にしなくても良い
教師は検定を受けた人で必ずしも経験者では無い!
その方達は能力育成ではなく統率することが仕事だ
プロとしての練習の辛さや技術を取得したものでは無い
苛酷な社会を生き抜いてきた経験もない
しかし蔑視したり無視したりしてはいけない
常に自分の身体に忠実であれ!
あなたの生きる目的を明確にして忠実にその道を歩のだ

他人と比べる!
周りの生徒と同じレベルに合わせる必要はない!
バレリーナとして心身ともに活躍できる時間は短い
自分の意識が高い内に、体力が限界に臨めるうちに
無謀と言われても挑戦をしなければならない
その分だけ世間から抵抗は受けるが笑って聞き流す
しかし自立はしても孤立はしてはならない
孤立からは集団演技が生まれて来ない
引き込む力を養いなさい

一人で歩き出す!
海外のオーディションを受け続け自分の適性に合ったところを探す
コミュニケーションの為の語学は後でついてくるので気にすることはない!
多国民族で構成されているので正規の文法まで正しく言う必要は無い
要するにパフォーマンスは万国共通である事がポイントである
それを苦痛では無く笑顔でやり過ごすことが一番難しい
肝心なのは日本の文化を正しく伝えられるかで教養が判断される
日本人のバレリーナを自覚して世界へ向かって歩き出して欲しい

うまくと上手になる!
上手(うまく)くなる必要はないが上手(じょうず)になる必要はある
うまくなるは他人と比べて言う言葉で気にすることは無い
誰・誰よりもうまくなったと言われても正しい評価ではない
自分が望む技術に対しての評価なら受け入れる
しかし上手になると言うことは手が上に向く技術の向上を言い
そうあなたの手が上に向くように努力する事が上手になる方法である
上手になれば舞台の上手(かみて)に立つこともできるようになる

ここからは言葉の捉え方を教えました
バラバラが良いんだ!
養護施設の園長がスタッフを集める時に言っていた言葉
子供好きな人ばかり集めると現実社会へ出て行った時に対応できなくなる
親から捨てられた子は甘えのない強い子に育てなければならない
そのために敢えて子供嫌いな人を数人・入れ込んでおく必要がある
優しい人の保護から甘えの意識が芽生えてしまう。

公平と平等!
差別のない国作りはあり得ない
人間は生まれた時から差別を受けている
たとえば双子の子は先に取り上げられた方が長男か長女になる
誕生が同時刻でも次に取り上げられれば次男か次女になる
その時点で家族内の待遇が変わる
背の高い人と背の低い人が並んで立っている
低い人の下に台座を置いて高い人の高さに合わせる事が公平で
両方の足元に同じ高さの台座を置く事が平等である
だから所得の少ない人に平等に義援金を配る発想はあり得ない
政府は綺麗ごとばかりで現実の対応が出来ていない証拠である

チャンスChanceとチェンジChange!
二つの単語の違いは一カ所cとgの部分である。
GはCにtの文字が載っていると言われています。
Tはtimingのtである
チャンスとチェンジにとってタイミングが重要だと言われています。
チェンジからチャンスに向かうか、チャンスからチェンジに向かうかは
あなた次第です。タイミングを外さないことが大切です。

親という字と親切とは!
親と言う字は木の上に立ち見守ることをいう
常に不安定な状態で子供をハラハラしながら見る
子どもが心配をかけるのは仕方ないことなのである
それが親の務めだからです
又親切は子供が親を切ることをいい親から自立することである
親子はある時期から離れる事が正しい
反抗期はそれの表れでいたずらに騒ぐ必要は無い
子どもを手放さない親は最悪な親である
大学生になっても一緒に風呂へ入る親子がいるが
子どもを手放さない親は子供を殺しているのと同じである

成り切るとは?
禅寺の教えに「もの」に成り切れという指導がある
例えばトイレ掃除は便器になりきれという教えです
モップで上辺だけを綺麗にすると言う意識を捨てて
便器に雑巾で手を突っ込んで掃除をしろという事です
トイレの気持ちになれば洗剤をかけて
モップで顔をごしごし洗われても
喜ばないし綺麗にはならない
箒で庭の掃除をするときにもただ掃くのではなく
塵取りの気持ちになって
小石の間に挟まったごみを取り除けと言う教えです

価値の位置!
どこの位置に価値基準を置くかが重要
沢山の情報社会にいると勝手にレールを引かれて生きていかなければならない
その沢山のレールの乗り方を間違えれば人生から転落する恐れがある
自分の生き方が決まっていると最適なレールを選ぶ事ができる
早く目的に到着することではなくて自分に合ったスピードで到着すれば良い
夢の計画を立てながら目標の位置に印をつけて目的に向かう
マイルストーンは時間に添った計画表である

恐れない!
「人」と描いて「他人」という意味のこの国は
ヒトを恐れて生きてきたけれど「人」の「間」にあるものは
不安や恐れじゃなくて愛だと子供達に教えたい
「何か」が終わってしまったけれど
それは同時に「何か」が始まって
「始まり」はいつでも怖いけれど
だからこそ「僕ら」は手を繋ごう

私のブログ「恩学」にはこのような文章が600以上あります。
機会があればお読みください。
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