愛の問いかけ




「 愛とは何か」?という問いかけに誰も明確な答えを持っていない。
それは「愛」という言葉が抽象概念であるから
人によって愛の解釈が異なるからだ。
愛とは親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。
愛とは性愛の対象として特定の人をいとしと思う心。
愛とは個人的な感情を超越した幸せを願う深く温かい心。

人は恋すると饒舌になり、愛すると沈黙する。
言葉による愛の説明は無意味で行動で愛を伝える人はおおくを語らない。
悲しい愛を知る人ほど柔らかな慈悲のエネルギーを発することができる。
慈悲は慈しむ心だから自分よりも相手のことを気にかける愛である。

神や仏が人類をいつくしみ、幸福を与えること、生あるものすべてに
恩恵を施し、見返りを求めない無条件の愛にこそ真実の愛がある。

また愛のチャンスは万人に平等に与えられるのか?
恋愛は必ず相手を必要とするから
一方的で強引な愛は罪に問われることがある。
お互いの心の開放がない内に恋愛を始めると暴力的な関係で終わる。

たとえば絶世の美女が野獣に恋するように
愛は見た目ではなく突然の愛の感情で花開くものである。泥沼に咲く蓮のように
運命に従い自分に最適な場所を選ぶのである。(美女と野獣)
アメリカ人作曲家のクリスチャンは貧しいキャバレーのスター、サティーンに
恋をする。しかし横恋慕した貴族のデュークが二人の間を引き裂くのである。
パリのキャバレーを舞台にした恋の駆け引き。(ムーランルージュ)
日本の悲恋物語としては江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で
放火事件を起こし火刑に処された少女の話もある。(八百屋お七)

いくら努力しても簡単に手に入らないのが愛である。

人びとが愛の経験に失望するのは、愛のなにかが間違っているからではない。
彼らは愛の範囲を狭めていって、愛の大海はそこにとどまれなくなってしまう。
あなたは海を抱え込むことができない。それは小さな川ではない。
愛はあなたの全の存在だ。愛はあなたの神聖さだ。
人は自分が愛情に満ちているかどうかを考えるべきだ。

あなたは愛だ。愛は対象に依存するのではなく、あなたの主体から放たれる輝きだ。
あなたの魂が放つ輝きだ。この放出される輝きが広大なほど、あなたの魂は
より大きい。愛の翼を大きく広げるほど、あなたの存在の天空はさらに
広大になる。あなたはすべての人間に共通した誤解のもとに生きてきた。
今あなたは尋ねている、「私はあなたを愛することができるのだろうか?」と
またしても同じ誤解だ。

それは状況による。人間の数と同じだけの愛がある。愛はヒエラルキーだ、
最低の段から最高の段まで、セックスから超意識までの、いくつもいくつもの
階層が、数多くのレベルが愛にはある。すべてはあなたしだいだ。
最低の段にいたら、あなたは愛に対して最高の段にいる人とはまったく
違った考えをもつだろう。アドルフ・ヒットラーは愛についてある考えを
抱くし、ゴータマ仏陀は別の考えを抱く。それらは正反対だろう。
なぜなら、彼らは両極端だから。

あなたは愛について語るが、深いところには相手を搾取しようとする
欲望がある。私はあなたがそれを意図的か意識的にやっていると言って
いるのではない。あなたはまだそんなに意識的ではない。
あなたはそれを意図的にできない。それは無意識のメカニズムなのだ。

これは愛がもっともっと瞑想的になって初めて可能となる。
薬(medicine)と瞑想(meditation)は同じ語源から来ている。
あなたが知っている愛は病気のようなものだ。それは瞑想という薬を
必要とする。瞑想を経過すれば、それは浄化される。
そして浄化されればされるほど、それは歓喜に満ちたものになる。

「禅」の世界はけっして愛に言及しない。私の理解によれば、
禅を実践する人はまさに息をするように愛する。
それはなにか特別なことではない、あえて言及しなくてもいい。
私はそのことをひとつも言っていないが、あなたは私の愛を感じないかね? 
私に何度も何度もそれを言ってほしいかね?

禅はそれを言わない、それは禅が理解していることの明らかな証しだ。
愛は口にされるのではなく、あらゆる仕草に示されるべきだ。
あなたの目を通して、あなたの手を通して、あなたの沈黙を通して。
それはあなたの周囲に放射されるべきだ。慈愛についても同じことだ。
それもやはり言及されない。

私たちは自分の愛するものの不幸を目の前にして、
手を拱いて傍観しているより外何事も許されない場合に、しばしば遭遇する。
そして静かに思えば、これまで幾人の人々と交わっては、別れ、別れして、
今は何処にいかなる生活をしているものやら、わからない人々があることだろう。
そしてそれらの人々をいかにして愛しようか。
この時、もし愛の深い人であるならば、耐えがたき無常を感ずるであろう。
その時殆ど私たちは愛する力も、知恵も無いことを感ずる。
そして、ただ愛したい願いだけが高まっていく。そして運命の力を感ずる。

「歎異抄」のなかにも、何人も知るごとく、慈悲に聖道浄土の変わりめあり。
聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふが如く助けとぐること。きはめて有難し、
ほんとうの愛にはみずからを表現する言葉がない。
ほんとうの愛は存在であり、あなたはそれを感じる。
それはあなたを風のように包み込む、それはあなたに雨のように降り注ぐ。

「禅」は愛であり、禅は慈悲だが、宣言をする必要はない、声明をしなくてもいい。
愛が最初にあなたの存在のもっとも深い核心で起こらねばならない。
それはひとりでいることの、幸せにひとりでいることの、歓びに満ちて
ひとりでいることの質だ。それは無心でいることの、静寂でいることの質だ。
それはからっぽの意識の空間であり、その状況のなかで、
あなたのなかに愛が起こってくる。

そう、あなたの言うとおりだ、愛は世界でただひとつの希望だ。
そして私たちはその転回点に近づきつつある。全面的な戦争か、
それとも全面的な愛か。これはどちらを選ぶかの問題であり、
第三の選択肢はない。もはや妥協できるものはなく、あなたは真ん中に
とどまれない。人は選ばなければならない。それは生きるか死ぬかの問題だ。
戦争は死であり、愛は生命だ。

人と人との接触に関心する人々の心に在って最も重き地位を占めるものは
言うまでもなく愛の問題である。愛は初め花やかになる一団の露のごとくに、
たのしく、胸を躍らす魅力を備えて私らの前に現れる。
愛を凝視せよ、愛を生きよ、その時私たちは初めて愛の種族に気が着くのであろう。

即ち母子の愛と、男女の愛と隣人の愛とが区別されて感ぜられるようになるだろう。
この差別の目に見えるようになるまでは愛のディレッタントである。
未だ愛を知っているとはいえない。そしてこの区別の見えるようになるには
人は多くの冷めたい涙と苦い経験を味わうものである。
愛の問題を真実に、自己の問題として生きる人は必ずこの区別が見えるように
なるに違いない。その時から後に真実の愛が生まれるのである。

音楽の世界にとって愛なくして語れるものは無い。

参考資料
OSHO&
「愛と認識との出発」倉田百三より