置かれた場所で生きなさい




運命によって両親の元に生まれ落ちた。
親も子も幸福を目指して共に歩き出す。
予期せぬ幾多の困難を宿命として受け入れながら幸福へと向かう。
理想の教育と現実のはざまで悩みが自然に起こり出す。
そして身体の発達と思考の発達がアンバランスな状態で異性に興味を持つ。

学問を積み重ねることと精神的な成長は別にある。
学校の教育で修身や倫理が無くなり人としてどう生きるのが良いか、
誰も教えてくれない。ましてや異性に対する接し方はタブーな領域だった。
ただ学力のアップダウンに一喜一憂するだけで大切な青春時代が過ぎ去る。

自分は何者か、何をすべきか、人生の目的は、生きるとは、
誰に質問して良いのかも分からない。本を読んでも理解が出来ず
ますます悩みが増えるばかりである。
哲学という言葉は大学に入るまで知らなかった。
若い僕らに哲学や仏教はピンとこない代物であった。
学問への探求はストレスの積み重ねにもなっていた。

現代人のストレスに強くなる私の方法を伝授します。

「三位一体」(さんみいったい)
もし自分の身体の中に3人の自分が居るとすれば悩みは軽減される。
中心軸を担当する自分と、右の翼を担当する自分と、左の翼を担当する自分。
このバランスが上手く機能すれば、
順調に人生の旅(フライト)を楽しむことができる。

中心の機体は年齢に応じた生活をしなければならない。
学習と労働である。ここが最も時間を費やす部分です。
人間関係、ライバル関係、接客等々で疲れてしまいます。
その上に家族が出来れば自分の学習時間がほとんどなくなります。
それでも仕事の学びは必要不可欠です。
社会全般の責任感も大切になります。主要な役割を担当します。


右の翼は文化芸能に興味を持ち楽しい人生を担当します。
仕事から離れて娯楽と快楽に重点を置き芸の世界に触れることです。
私はもともと音楽業界にいたので芸能関係の友人は多くいます。
一般の方であればプロの方と接する機会は少ないと思いますが、
求めて音楽会や能楽や絵画鑑賞へ出かけるのも重要です。
この時には仕事のことは忘れます。ストレス解消の脳が作られます。

左の翼は将来の夢を描き経済活動に専念して貯蓄に励み家族を守る。
20代で仕事を覚えて、30代で役職が付き、40代で経営陣に加わる。
この流れの中で家族との心配をしなければなりません。
子どもが生まれれば進学の事から結婚・就職と親の責任が加わります。
もちろん育ててくれた両親の老後のことも気になります。
自分の健康のこともおろそかにしてはいけません。社会生活の重要性です。

三位一体(トリニュート)の形をとるとストレスがかかりにくくなる。
私は問題が起こると、この問題はどの自分が解決をするべきか考えます。
三人の自分が居れば全員で考えなくて一人の自分が真剣に考えればよいのです。
難しく考える必要はありません。
役割分担を明確にする。いわゆる「割り切る」という事です。

例えば、経歴は過去の自分の人生であり、今の自分の姿でない。
そこに自分のリアルな意思は反映されていないのである。
しかし他人は書かれている記録を見て判断する。
そこに時間の経過と人間性の本質はどこにも見当たらない。
本質は精神性であり、思考であり、人としての歩んできた道である。

「私」と言う字は穀物を両手抱えている姿を表している
象形文字だが本当の「私」で無い。
「僕」と言う字も罪を犯した奴隷が額に刻印を押された様子を
表している象形文字だが本当の「僕」では無い。
私も僕も同じ一人称で男と女で使い分ける。

常に自分の人生が日の当たる場所にある訳ではない。
三人の自分がいればそれぞれの日に合わして役割を
担当してくれれば都合が良い。

私は仕事が順調に進んだ時の自分と、
天気が悪くて憂鬱な日の自分と、
お金儲けの自分と分けている。
調子のよい時には三つとも手に入り、悩みは無いが、
かといって収入が少なくても文化活動で気を紛らわせることは出来る。
その内、収入が増えると思えばストレスは溜まらない。
クリエイティブの仕事は経済力に影響されてはならないのです。

みんな真剣に生きている。そのこと自体に優劣はない。
どんなに恵まれた体力と才能があっても努力がなければ意味がない。
その反対に才能も体力もなくても必死に生きている人の方が素晴らしい。
人は置かれた場所で輝いて花開くことの大切さを知らなければならない。
たとえ名もなく見捨てられても私は自分を見守りたい。

禅語「随所作主立処皆真」
臨済宗の宗祖臨済義玄禅師の言行録『臨済録』の一節に
「随処作主、立処皆真(随処に主となれば、立処皆な真なり)」があります。
それぞれの置かれた立場や環境で、それぞれのなすべき務めを精一杯果たせば、
必ず真価を発揮することができると喝破(かっぱ)します。
 
私たちはともすれば、不遇や環境を嘆き、できない言い訳を他の責任にして、
不満ばかりを募らせます。その瞬間、こころも、行動も一ケ所に淀んでしまい、
同じところをぐるぐると迷いの渦に沈んで行き先を見失ってしまいがちです。
まずは、自分の置かれた環境、条件、境遇をありのままに受け入れる。

そうしていったん立ち止まり、今、此の瞬間、自分にできること、
手を付けられることは何かをしっかりと見据えてみる。
そこを手掛かりとして一歩を踏み出し、後は結果を顧みず、
その瞬間その瞬間にすべてを投げ出して、誠心誠意、弛(たゆ)まず
牛歩の如く取り組んでゆく。いつか気が付けば、思いもかけない
成果を手にしていた!との真実を伝えてくれる一語でしょう。

まさしく
置かれた場所で生きなさい。
禅語の言葉は素晴らしいですね。合掌