ウェルテルの横恋慕

 

恋に悩み恋に苦しみ恋に溺れている人の話を聞いた。そしてこの書を薦めた。

ドイツの文豪ゲーテが書いた「若きウェルテルの悩み」である。

この小説が発表されるや否や、ドイツの読書界は深刻な衝撃を受け、賛否両論の渦が巻き起こった。
それはこれまでの小説の常識を完全に打ち破る作品だったからである。

十八世紀の小説は、恋愛小説にせよ、旅行小説にせよ、
読者に娯楽を提供し教訓を与える事を目的としていた。

すなわち十八世紀は芸術や文学の本質的機能を、人を「娯のしませることと有益であること」に見ていたのに対して、
「ウェルテル」は根源的に人間の生き方そのものを問題にしようとした。

読者の思念は主人公がなぜ自殺しなければならなかったのかという点に拘わりあわざるをえない。
従来の小説では、愛が人間の自由意志によって死に結びつくなどということは、考えられないことだったのである。

彼は全人的な愛を求めた。しかし彼の宿命的な恋人ロッテは、
やがて人妻となることは最初からわかっているし、また人妻に対する恋は、浮世の掟が許さない。

そういうどうにもならない状態から脱出して、愛を永遠化するために彼に残された唯一の道は、
すなわち死だったのである。

青春のエネルギーのすべてを、もっぱら自己の内部に向けるのみで、現実の社会に適応して、
そこに自己の生活を築きあげる事を、知らない青年の悲劇が「ウェルテル」なのである。(訳者高橋義孝)

人が生きる上で愛の囲(かこい)を無視して語る事は出来ない。
愛があるから自分以外の人を守る意識が働き、愛を育み継続させようとして、愛ある環境を整えようとする。

愛があるから全ての芸術が生まれ、全ての芸術は愛の存在の証明になるのである。

愛は青年の自立を促し、向上心を煽り、独占欲と共に、未来の生きる方向性を見つけ出してくれるのである。
しかし現代では一概にそのように考えるのは難しいのかもしれないのである。

リアリティーよりもバーチャル世代で育った若者は、
愛の本質を知らずにゲーム感覚で愛を捉えているかもしれない。
愛も喜びの数あるアイテムの一つとして必要な時には使うがそれ以外では使わないのである。

愛の本質は相手をいたわる事であり、愛する事は相手の趣向も未熟さも
全てを受け入れる事から始まるのである。

リアルな愛は四六時中相手の事を考えなければならない。

愛する相手と頻繁に連絡をとり、常に愛の確認を取らなければならない。
その上に愛を育むためには、食事に誘い映画を見て旅行にも連れて行かなければならないのである。

愛する行為は現代の若者達とって、時間とお金の無駄使いと考えている節がある。
無機質な教育で植え付けられた知性が、
人間としての感情を押しのけて淡白な人生設計をしてしまう危険がある。

そのような生き方からは倉田百三の言う
「愛は謝罪を持ってする」という意味を理解する事は不可能だろう。
愛する事は一筋縄ではいかない事である。

倉田は「私は恋愛を迷信する。この迷信とともに滅びたい。この迷信の滅びる時私は自滅する外はない。
ああ迷信か死か。真に生きんとするものはこの両者の一を肯定することに怯懦(きょうだ)であつてはならない」
まさに生きるべきか死ぬべきかなのである。

ウェルテルの一方的な横恋慕で始まった恋は、経済的な理由から許嫁アルベルトに軍配が上がり、
ウェルテルの純粋な恋は叶わぬままに終わりを告げたのである。

そして恋の結末としてウエルテルは自ら死を選んだ。

ロッテはウェルテルの死を予測しながらも、ウエルテルの従僕にピストルを渡したのである。
純情可憐なロッテも許嫁アルベルトとの結婚が約束された時点で、情熱的なウエルテルが眼ざわりになったのかもしれない。

天真爛漫なロッテも魔性の女としてウェルテルとアルベルトと天秤にかけていたのだろう。

恋愛が一筋縄でいかない理由がここに在る。

結婚において情熱をとるか財産を取るか二者択一では、多くの女性は財産なのである。
それは、情熱はすぐに冷めるが財産はすぐに冷めないからである。

美しい恋の結末としての死は、永遠の愛を勝ち取ったのかもしれない。
そうなれば勝者は許嫁アルベルトでは無くウェルテルに軍配が上がった事になる。