思考の先回り(気づく)




「知る」ということを会得する為には「読む、書く、話す、繰り返す」が必要です。
噂を耳にして知っているというのは、聞いたというだけで知ってはいません。
インターネットやテレビなどで流れて来る情報は、
聴いた!見た!というだけで記憶には残りません。騒音と同じです。

目標や目的も実行が伴わなければ「願う」ということだけです。
予定を組んだとしても行動が無ければ「無いものねだりの神頼み」です。
自身の経験や達成が積み重なることにより「叶う」になっていくのです。

「感即動」
興味があり感知した時には行動が伴わなければ「知る」機会を失います。

そして「知る」を会得したら「気づき」が起こるのです。
外部からの情報が無くても、自分自身の予知が出来るということです。
気づきは創造力が無ければ気づくことは出来ません。

世間でいうところの「人寄せ」は出会ったときに縁があると感じることです。

人の出会いは一瞬早からず又一瞬遅からず
出会うべき人には必ず出会う
しかし、求める気持ちが無ければ
運命の人も目の前を通り過ぎる
森信三

私は何度も若い時に偶然の出会いに恵まれました。
ジャズの伝説的な巨匠であるドラマーのエルビンジョン、
ギターリストのバニーケッセル、シンガーのジェームステーラー&アルスティワート。
レストランで紹介され、ジャズクラブで声かけられ、
百貨店で買い物途中に出会い、音楽キャンプで目の前に座っていた。
私が会いたいと思ったら会える。

勿論、英国に行かなければそんな偶然も起こりません。
憧れの人に会いたければその人の近くへたどり着かなければなりません。
たとえ会えなくても気持ちの上では出会ったと同じ満足感も生まれるのです。

禅門には「冷暖自知(れいだんじち)」という言葉があります。 
自身が直接的に冷たい、暖かいということを体験し、実感する。
また、その体験した実のところは他者に伝えることができない」
という意味です。 

例えば、ここに冷蔵庫で冷やされた水と40℃のお湯をお湯のみに入れて
二人の方の前に出したと致します。
それを眺めながら、「こっちがお湯で、あっちが冷水」
いや「こっちが冷水で、あっちがお湯だ」と互いが互いに検証し合ったところで
無駄に時間が過ぎてしまうだけでしょう。 

理屈で証明できないことはありませんが、明確でしかも早いのは
それぞれのお湯のみの中身を飲んでしまうことではないでしょうか。 
一口飲めば、冷水かお湯かは人から面倒な理屈で説明されるまでもなく、
どのくらい冷たい水なのか、どのくらい温かいお湯なのかを、
私自身が実感を伴って知り得るのです。 

人からどんなに事細かに教えられたとしても、実感を伴って
私自身が知り得ることはありません。
この実感を伴って知り得ることが大切なのであります。 

また、「冷暖自知」だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、
そのとき一所懸命に実感を伴って知り得ようとする姿勢であり続ける
ことが大切なのであります。 

気安く知り得ていると思い込まない。謙虚に知り得ようとする姿勢であり
続けることで、より様々な体験・経験を積み重ね、気づき、
当たり前のことが実は有ることが難しいこと、すなわち有り難いことに気づいていく。
そうなりますと、今まで見えていた風景も違ってくるのではないでしょうか。

ある寺の禅僧が毎月お参りに伺うご高齢のお檀家さんがいらっしゃいました。
そのお檀家さんとの何気ない会話の中で「80は80なりの、
90は90にならなければ知り得ないところがある」といわれました。 

若かったときの様々な苦労や楽しかったことを積み重ね、
そして今、身体の老いや親しい友人がいなくなるといった様々な苦しみや
寂しさを味わっている中だからこそ、あのときは見えなかったものが、
今では少し見えてくるようになり、目に見える風景も随分と変化するものだと
教えて下さいました。

自らが自らの体験・経験によって実感として知り、気づき、
会得することが「禅」では大切であります。
だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、
私自身が知り得ようとする姿勢であり続けることが肝要であります。
それが「知るということ」ではないでしょうか。

「知る」を邪魔するのは好奇心の欠如です。
そんなこと知っても時間の無駄だし何の役にも立たない。
あなた自身の心から興味を消しては駄目です。

触ってみなければ熱さ冷たさも分かりません。