成り切る




憧れの人、憧れの職業、憧れの人物、憧れの生き方など様々な憧れが存在する。
それらの人に近づくには成りきるしかないのです。
ボーッとしている人生では、憧れは遠くて手に入れることは出来ないが、
憧れの人に成りきることで身近になりやがては憧れの人を追い抜くことにもなる。

子供は子供らしく、大人は大人らしく、男は男らしく、女性は女性らしく、父親は
父親らしく、母親は母親らしく、憧れの人を想定して、その人に成りきるしかない。
憧れの人と喜怒哀楽を共有すれば苦しみも辛さも乗り越えることが出来る。
生きるとは学ぶことではない、生きるとは真似ることなのだ。
先ずは「心と姿を真似よ」ということです。

例えば一流の料理人を目指す場合は目標とする料理人を探す。
出来る限りの情報から料理人の一挙手一投足までをデーター化する。
料理人の普段の生活から、食材の仕入れから、調味料の種類や適量を調べだす。
どのタイミングで調味料を加えるかも調べ上げ、使う調理器具から、
仕上がった料理を乗せる食器まで事細かく追及していく。
彼の繊細な性格は普段のくらしの中にも必ず反映しているはずである。
どのような暮らしをしているのか、どのような服装をしているのか、
どのような考えを持っているのか、ところから次の料理のレシピを考え
出しているのか事細かく調べ上げる。

勿論、彼の料理を何度も食べることは述べるまでもない。

例えば一流のカメラマンを目指すなら、目標とするカメラマンを探し出さなければなら
ない。
彼の作風の何に惹かれたのか、何が感動を作り出したのか、使っているカメラは
何処のメーカーの物か、フイルムは何処のメーカーの物か、現像は自分なのか、
それともお気に入りの現像所があるのか?
彼は写真で何を訴えようとしているのか?
彼がカメラに取りつかれたのは、どのようなきっかけだったのか、
いくつかの作品を見ながら答えを出していく。

沢山のカメラマンを目標とする必要はない。たった一人のカメラマンを追求すればよい。

私は一流のプロデューサーを目指すためにビートルズのプロデューサー、
ジョージ・マーティンやマイケルジャクソンの・クインシージョーンズを
少ない情報の中から調べ上げた。

プロデューサーが音楽を制作するのは当たり前だが、それらを売り込む手だてまで
考えていたのを知った。
そこには衣装からライブパフォーマンスまで、果てはステージの演出まで
アーティストを売り出すために彼らは多岐にわたる才能を発揮していた。
私がレコード会社に入った当時は、制作は作詞・作曲家と編曲者が作り、
売り込みは営業と代理店が行っていた。
全て分業と流れ作業による商品の販売だった。

私は日本で最初のプロデューサーとしての自負がある。
アーティストの発掘から、制作、宣伝、営業、地方への売り込みまで全部仕切ったのである。
愛情を持って育て上げたアーティストは、見つけた才能を見出した人間が、
担当するのは当たり前なのだが、日本のレコード会社のスタッフはそれが出来なかった。
一流の大学を出て音楽会社へ入ってきてもアーティストとのコミュニケーションが
苦手だった。
私は学生時代にバンドを組んで活動をしていたのと、ロンドンへ行って現地の
音楽シーンを生で目撃したのが功を奏したのだと思う。

先日の「老人と孫」のトークショーで主賓の煎茶道黄檗売茶流の先代中澤弘幸氏から
黄檗禅での「成り切る」について話がありました。

修行中の僧の見習いが幾らトイレ掃除をしても、先輩禅師から何度もまだきれいに
なっていないと言われて時の話です。お前は掃除をしているつもりでいるが、
一向に綺麗にならないのは、お前は見える汚れを取り除いいているだけだ。
「トイレ掃除はトイレの便器になりきれ」ということであったと伺い、
大変興味があり私なりに黄檗禅で検索をしたところ同じような記述見つけました。

「臨在禅・黄檗禅/公式サイト・臨黄ネット」より

拙寺に於きましては先住職の時代(昭和40年~60年頃)、高校生を中心にして、
30名程が毎月一度、金、土、日曜日の2泊3日、寺へ泊まり込み、
盛んに坐禅会が行なわれていました。
私はまだ小学生でしたが、坐禅会の日がくると一緒に坐っていた
というか、坐らされていたというのが正直なところで、大変苦痛でありました。
最終日の日曜日になると粥座後の作務で坐禅会が終了ということになるのですが、
今になって考えてみますとまだまだ16、17、18歳の高校生です

修行僧のように徹底して作務に集中することなどできません。
ただ箒を持って突っ立っている者、うろうろしている者、草を引いているのか
喋っているのかわからない者、
雑巾を濡らしているだけの者、さまざまであったように思います。
そういう時によく先住職が大声で学生に言っていた言葉が、”成り切れ”と
いうことでした。「箒を持てば箒に成り切れ、雑巾を持てば雑巾に成り切れ、成り切れんから喋るんじゃ、掃けんのじゃ、拭けんのじゃ」と、作務に成り切れということでした。

私もその頃少年ソフトボール部に入っており、先住職は少年ソフトボールの選手に向かい
「おまえさんバットで打とうと思うとるじゃろ。
バットを持ってこのバットで打とうと思うとるから打てんのじゃ、
おまえさん自身がバットにならにゃいかん、

自分とバットが別々だから打てんのじゃ。バットを持てば自分がバット、
バットが自分となって、ピタッと一つになったら打てる」と答えを出しました。 
その後この学生が打てるようになったかは知りませんが、
これも”成り切れ”ということであったと思います。 

“成り切る”とは、物と心が一つになるということです。
人馬一体などといわれますが、人と馬が一つになってこそ良い結果が生まれてきます。
車と一つになればこそ安全な運転ができるのです。
靴と一つになればこそ、脱いだ瞬間無意識に玄関の履物は揃っていることでしょう。
服を脱げばきちんと片付けられているでしょう。そういう日々を送っていきたいものです。

それが禅的な生活(くらし)ではないでしょうか。

私の「成り切る」の経験と禅の世界での「成り切る」が偶然一致した瞬間でした。
相手を思いやることも大切ですが、相手の気持ちに成り切ることがもっと重要です。

そして成功を計画するのなら、失敗も想定してください。
憧れの世界へ入っていくのですが、成功体験を目指し過ぎると思わぬ落とし穴に
陥ることにもなります。形では問題なくとも環境や時代性や物流のやり取りが
違うからです。
それでも憧れの世界へ入りたいのなら失敗も想定するべきです。
事前にうまくいって成功した場合と、うまくいかなくて失敗した時の状況を
作っておくのです。そうすることによって万が一の場合も慌てることは無くなります。

いくつになっても挑戦は楽しいものです。皆様も「成りきり」ながら
毎日を楽しく過ごしてください。