迷い道くねくね




人生において度々進路が見えなくなります。

自分なりの強い意識を持って挑戦するのですが、
求める先が見えないのに答えを出さなければならないのです。

人生の長さを考えれば常に限界の先を目指して突き進むしかないのです。


「うを(魚)水をいくに、ゆけども水のき(際)はなく、
鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのき(際」はなし、
しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。
只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。」
「正法眼蔵隋文記」道元

魚は泳げども、泳げども海はどこまでも続くが、海から離れない。
鳥は飛べども、飛べども空はどこまでも続くが、空から離れない。
いずれも究極まで行こうとするのでなく、その都度必要なだけ進むにすぎない。

限界を目指して修行は行われるが、限界の先に到達した人は少ない。
悟りを得た修行僧も、その限界の先を何度も挑戦するが行きつくことは無い。
その都度己の必要な分だけ前へ進めば良いのである。

「百尺の竿頭にまだ一歩先を進めず」道元

人間はおろかである。究極の先には何もないことを知りながら前へ進もうとする。
しかし先に行くことを恐れる者には「悟り」は存在しない。

般若心境に書かれている「色即是空・空即是色」そこにすべては無い、
しかしそこに全てが存在する。存在とは誤認識の中の錯覚であり、
ミクロまでたどり着けばそこには何も存在しないのである。

視覚で捉えた世界を在ると信じるのは間違いである。

目標をライバルにしてしまうと目的が見えなくなる。
同じポジションにいるから同等だと勘違いをして後れを取ることが多い。
ライバルが先を行くことになると目線の中では自分の方が先に行っている勘違いが起こる。

そして気のゆるみから大きく後れを取ってしまうことがある。
目的が明確でないと常に目標に気が取られてしまう。

「人、舟に乗りてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。
目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、
身心を乱想して万法を肯するには、自心自性常住なるかとあやまる。」

例えば船に乗っていて岸辺を見たら、岸が動いているように見える。
しかし船べりに視点を移せば、やはり船の方が進んでいることがわかる。
あれこれ頭を使いすぎると、さっきの岸辺なんてもうなくなったのに、
まだあるかと錯覚してしまう。

目に映るものがあっても、その実態はないのだ。
目に映る世界が正しいと勘違いしている人が多い。
それが常識だと教え込まれるからである。

真実でなくとも脳が記憶した常識で反応してしまうのである。

常識を妄信するとコントロールされやすい人間になる。
果たして自分の目に映る世界は、他の人と同じものを共有しているのだろうか。
自分は動いていないのに他の人が動いていれば、
勘違いのまま自分が動いていると信じてしまうのである。

SNSでいくらフォロワー数を上げて人気サイトになっても、
半年後には消えていく運命であることを知るべきである。
そこには実体がないのだ。