人が通る通路を「道」と言います。道という字は首が歩く方へと向いています。

目的があって通る場所です。多くの人が利用するので、それなりに整地された状態です。
目的の場所へと続く道です。「凡ての道はローマに通ず」という有名な言葉もあります。

「路」も道と言います。

こちらはどちらかというと隘路のように山間の狭くて通りにくい路を言います。
路という字は足が石ころにひっかかり、ころがしながら歩くさまを言います。

遍路という言葉があります。空海の修行の遺跡である、四国八十八か所の霊場を巡拝する路の事を言います。

「蹊」という字も道です。

山道、小道、細長く紐のような道を言います。猟師道、獣道もこの部類に入るのでしょう。

私の座右の銘「桃李不言、下自成蹊」桃李言ザレドモ、下オノヅカラト蹊ヲ成ス」

無理に偉そうなことを言って道を作ろうとするなよ。
人は桃の花が咲けば、花を見る為に自然に集まって来る。

また同じように李(すもも)の美味しい実がなればそれを求めてやって来る。
そして、その後には自然に幾つもの道が出来ている。

紀元前1世紀に司馬遷が著した「史記」の中の一節です。

さて、みなさんは今どの道を歩いていますか。行く先の見える目的を持った道でしょうか。

困難の多い人生のつまずきやすい路でしょうか。
それとも敢えて世の中に反発しながら細長い蹊を選んでいるのでしょうか。

それぞれの道を歩くにはそれぞれの姿があります。

見た目の姿では無く、心のあり方の姿です。
どの道を選ぶにしても後悔の無い選択をしなければなりません。
そしてその道の特性を知り歩く速度も決めなければなりません。

その結果目的地まで辿り着く強い信念が生まれるのです。

どのような状況で有っても歩き通す覚悟が心のあり方なのです。
多くの誘惑や挫折にも負けないで一直線に歩き続ける事に意義があります。
辛いこともあります。苦しい事もあります。泣きたい時や叫びたい時もあります。
それでも自分の選んだ道を歩き続ける事が大切です。

「毅然」という言葉が好きです。

意志が強く物事に動ぜずしっかりとしている様を言います。
どのような過酷な人生であれ、前向きに目的に向かって歩き続ける毅然とした態度が大切です。
そして、その人の後ろには自然に道が生まれている事だと思います。

モノクロの映画の時代にフェデリコ・フェリーニ監督の「道」という映画が評判になった事を思い出します。

旅芸人と手伝いの女を描いた作品です。
粗暴な男と少し頭の悪い女の内容でしたが、宗教的色彩が強くあまりストーリーは理解できませんでした。

イタリアの農村地帯の荒れた路に、髪の短い目の大きい中性的な女が、
画面一杯に笑っていた表情だけが印象に残っています。