忘れてはならぬ出来事
山川菊栄著「武家の女性」の中の一説に「子年のお騒ぎ」というのがあります。
水戸藩の内乱を描いた文章なのですが、どうしても忘れてはならぬ出来事があります。
幕末の動乱期の水戸藩での出来事の一節である。
水戸藩では改革派と保守派に別れて二大勢力が争っていた。
その改革派の中に急進派と漸進派の二派に分裂をしていた。
桜田門外の変は、彼ら水戸藩の急進派の武士によるテロで有った。
その急進派天狗党の中心人物であった武田耕雲の一家19人が死罪になったのである。
その出来事が忘れてはならぬ話である。
長子、彦左衛門の妻いくは、15歳、13歳、10歳の三人の男児と一緒に入牢中、子供達に「論語」を教えていた。
それを牢番が見て「どうせ死んでいく子に、そんなことをしても無駄だろう」というと、
いくは居ずまいを直して、「この三人のうち、ひょっとして一人ぐらいは赦されないとも限らない。
その時、学問が無くては困るから」と答えたと言います。
しかし、その期待も空しく、三人が三人とも斬られ、いくは牢内で食を絶って自殺してしまいました。
武田の妻は三歳の男児を抱いて入牢しましたが、
ある日珍しくお膳にお刺身が付いていたので、ハッとしました。
もちろんこれは死出の門出での、最後の御馳走の意味でした。
そうとも知らず、抱いていた子が手を出そうとすると、
「武士の子は首を斬られた時、腹の中にいろいろな物があっては見苦しいから」
と抑えました。
「哀れだったのは、十五になる耕雲の孫で、死を前にして母親から
「論語」を教えられていたあの子が、首切り役人に呼び出された時でした。
罪の軽い者から先に斬られるので、親よりは子供の方が先なのですが、
その子が何と思ったものか、「お母さんお先へいらっしゃい」
「まあそういわずにお前から先へ」「いいえどうぞお母さんから」と
先を譲って聞かなかったことでした。
どうせ斬られることは承知なのですから、母に嘆きを見せまいため、
男の自分が少しでもあとになろうと思ったのでしょう。」
「もっと小さな三歳の男の子は炭俵に入れておいて、
上からお菓子を見せてひょっと首を出したところを斬ったのでした。
その二歳の弟は餓死で死んだのですが、首切り役人は
「あの餓鬼も生きていれば一緒にやってやるのだった」といったそうです。」
このような事実が現実にあったという事です。
私が改めてこの文章を思い出したのは、母と子の関係です。
どのような状況でも学問を教え続けていた母親の気遣い。
子供は母親に哀しみを見せないようにする母へのおもいやり。
死を前にしての母子の気使いが深く脳裏に刻まれたのです。
この時代は藩や幕府に対する謀反は一族お取りつぶし、
または死罪が当然とされていた。
それを承知で武士の意地で已むに已まれず行動を起こしたのです。
処刑されるのは、一人や二人などの少数ではなく、何百人が同時に首を斬られる時代だったのです。
そんな残虐な行為が罷り通る歴史が二百年前にあった。
現在のように親子の関係が軽視され、
平気で子供を虐待死させる親には通用しない話である。
是は日本の歴史であり。忘れては成らぬ出来事なのです。
現在NHKで放送されている「八重の桜」はお隣の会津藩の物語です。
有名な「ならぬことはならぬものです」会津藩の子供は幼き頃より、
この什の掟を暗記するのです。
武士としての意地を子供の時から学ぶのです。