文字の膨らみ・声の筋肉

 

文字を伝達の手段として使うのであれば平淡でも構わない。

文字を意思の手段で使うのであれば濃度が無ければならない。

文字を感情の手段として使うのであれば膨らみがなければならない。

万葉集の表現様式は、
寄物陳思(恋の感情を自然の物に例えて表現)
正述心緒(感情を直接表現)
詠物歌(季節の風物を詠む)
譬喩歌(自分の思いをものに託して表現)
などに分けられ、これ等を使いこなして初めて文章が成立する。
一つの事象に様々な表現様式を加えて感情と共に文章が膨らむのである。

声を伝達の手段として使うのであれば抑揚は無くても構わない。

声を意思の手段として使うのであれば知識が無ければならない。

声を感情の手段として使うのであれば音に起伏がなければならない。

言葉は発すれば良いと云うものではなく声の筋肉が必要である。
「言葉が言葉自身の肉体をもちえない、あるいはわれわれが言葉を肉化していない、
肉体にしていないといったほうが正しいように思います。言葉はその生成において、
最も根源的であるのに、何故か事物の皮相な部分をしか捉えようとしていない、のです」
言葉の海へ武満徹(作曲家)

文字が脆弱であれば言葉もひ弱なものである。
ひ弱な声からは感動は生れないものである。

古代の琵琶や笛は音を出しにくくして音を出す「さわり」という手法を使います。
「さわり」とは障害です。障害を与えることによって生まれる音があるのです。
「音」に重みと深み、影と光、清音と響きを付ける方法は日本独特のものです。
感情の赴くままに言葉を使うのではなく、
感情を少し押さえたところから言葉を発するのである。

そこに説得力のある繊細で筋肉質な言葉が生まれ感動が起こる。

男性の言葉が単調なのは獲物を狙う時に短く低い声で話し合うからである。
女性の言葉が変化に富むのは生きて行く上で演技を必要とするからである。

文字の膨らみと言葉の筋肉を鍛え直す必要がある。
伝えあう手段が美しく精悍でなければ本当の心音は伝わらない。

近未来ではコミュニケーションが均一化されて、
人は文字も声も不要になるのかもしれない。
それまでは抵抗して戦うべきである。
文字や言葉を生き物として扱うべきである