路上の人
堀田善衛を知ったのは宮崎駿さんの投稿を見た時です。
早速アマゾンで6冊購入して読むことにしました。
「バルセローナにて」「方丈記私記」「若き日の詩人たちの肖像」上下
「広場の孤独」「堀田善衛を読む」
この書籍たちはかなりの読解力が無いと読み続けるのは困難です。
そして文脈の中にある景色を頭の中に描ける人です。
ソフトノベルでは無いので若い人たちは手こずると思います。
しかしせめて大学生には読んで想像力と精神力を高めてもらいたい。
便利で役立つ手引書では無いことを最初にお伝えします。
読書好きには堪らない世界観を楽しんでみてください。
読後感想の中から選び出しました。
『路上の人』堀田善衞(徳間書店)
スタジオジブリの宮崎駿監督が最も尊敬する作家の作品として、
徳間書店から復刊されていますが、わたしが読んだのは古本で手に入れた
新潮社版になります。
冒頭から、中世ヨーロッパの路上に引きずり込んでいく筆力には脱帽です。
文化、言語も違う小さな村々が、深い森に点在するヨーロッパ。
それは森の海に浮かぶ小島のようでした。森にはオオカミやクマが跋扈する
危険な領域でした。
やがて、村々を結ぶ細い道が出来、町が発展し、小道が広くなり、
多くの人が行きかうようになっていきました。そこから物語が始まります。
主人公のヨナは、旅人の従者として生きていている40歳を過ぎる
その道のベテランです。多くの国を渡り歩き、何か国語も話すことができます。
僧侶にともすることを好んだため、ラテン語も少しわかるようで、
教会の受けもよいようでした。
従っていた異端と言われる僧が毒殺されたため、ローマから異端の調査に
派遣された騎士の従者になり旅をするストーリーとなります。
ローマカトリックの偏狭な異端審問と残虐な十字軍、迫りくるモンゴル帝国の影、
キリスト教の根本を追求していくような異端者の群れの中で、
主人公ヨナは観察者として、歩いていくのでした。
従っている騎士は、友人の僧を助けることができず、異教徒と行動を共にする
幼馴染の女性を救おうと策略を巡らせます。ヨナは補佐をしながら、
この騎士と何処までも旅をしたいと思うのでした。
中世前半のヨーロッパ、特にキリスト教の闇の深さを感じます。
同じキリスト教でありながら、考え方の違いで異端として残酷に断罪する
偏屈さは、異様に思えました。
このころのヨーロッパを路上から眺めたい人にはうってつけの本です。
「堀田善衛を読む」池澤夏樹(集英社)
本書に鹿島茂氏の「「中心なき収斂」の作家、堀田善衛」という論があり、
そこで鹿島氏が solidarité 連帯 ということを書いている。その辺りを少し
引用してみる。「フランス語に‟solidarité”(ソリダリテ)、連帯という言葉があります。
これはフランスを理解するためのキーワードです。
この‟solidarité”を求めるということは日本にはない。
これが日本という国の一つの特徴です。
フランス文学はどんなに身勝手な文学のように見えても ‟solidarité”
つまり社会というものを通して他の見ず知らずの人と、ある種の連帯を
求めていくという要素があります。
ところが、日本の私小説は、個人主義的というところは似ていますが、
社会の部分が決定的に欠けている。だから、日本の私小説はかなり
特異な文学になるわけです。この社会とは何かと言ったら、自分ではない他者です。
他者の中に自分を見出し、自分の中に他者を見出す。そいう視点が日本の
私小説には決定的に欠けている。」
このsolidaritéは、コミュニタリアニズム(共同体主義)とはまったく異なる
ものなのだろうと思う。リバタリアンがある局面においてはリバタリアン
同士が結びつくというような方向なのではないかと思う。
「池澤夏樹、文学全集を編む」という本の、石牟礼道子との対談で池澤氏が
自分について、「皆で一緒に何かやるというのが本当にだめなんですよ」
といっている。「チームを作るのがだめなんですね」、と。池澤氏というのは
今一つよくわからないところがある人で、眼高手低というか、いささか理論倒れの
傾向があるし、自分(あるいは自分の理論)へのこだわりが
ちょっと強すぎる感のあるひとで、それにわたくしの偏見であるが
いかにもインテリ風で、髭なども生やしているし、あまりそばにいてほしくない
タイプのひとであると感じるのだけれど、ここでいっていることは実によくわかる。
君子の交わりは「淡きこと水の如し」をよしとするはずで、
自分を君子であるというつもりはさらさらないが、べたべたとひっついている奴に
碌なのはいないとは感じる。
大岡昇平の「鉢の木会」という文章に、「「鉢の木会」の連中(神西清、中村光夫、
福田恆存、吉田健一、三島由紀夫、吉川逸治、大岡昇平)はみんな孤独である。
徒党を組むなんて、殊勝な志を持ったものは一人もいない」とあった。
わたくしには、人が一緒になにかをするということが、すぐに徒党を組むという
方向に思えてしまう。
しかし、そういう方向に話が向かうということは、
わたくしが日本人であって、日本での中間団体というと、鹿島氏にいわせれば
家の延長であり、ムラ社会を引きづっていて、機能集団とは決してならない
ということがある。
日本の中間団体は共同体化する、あるいは共同体化しない限り
うまく機能しないということを何とか克服しようとして堀田氏が志向しようと
したのが、フランスで solidarité といわれるような「何かであった」というのが
鹿島氏のいわんとすることなのだろうと思う。
堀田氏もとりあげたいわゆるフランス・モラリストの系譜のモンテーニュなどが
その例として取り上げられている。しかし、たとえば渡辺一夫さんのようなひとが
日本で何らか一定の影響力を持ったかといえば、そういうことはなかったように思う。
モンテーニュは決して潔癖主義的なひとではなかったということも鹿島氏は指摘し、
禁欲主義的方向の危険性ということもいうのだが(これはおそらく吉本隆明経由)、
どうも日本では(あるいは世界のどこででも?)清貧の思想にはフランス・モラリスト
路線はまず勝ち目がないのではないかと思う。
禁欲主義といえば本家本元はもちろんピュウリタニズムであって、
わたくしなどには、最近の#me too運動にも微かにピュウリタニズムの匂いを感じる。
(現在のピューリタニズムの象徴が禁煙運動であって、この運動が一定の成果を
上げた後は、矛先は、今度は飲酒に向かうはずである。)
それでカトリーヌ・ドヌーブさんのいうことにも一理あると思ってしまう。
もっともドヌーブさんのいっているのは恋愛方面の話であるのに対し、
#me too運動はもっと即物的な方面の話なのであろう。
ごく最近では、何とかという写真家がセクハラ云々で問題になっている。
わたくしなどはまったく知らない名前だったが、一部の方面では著名な人で
あったらしい。一部の方面というのはいわゆる進歩陣営といわれる方面で、
わたくしが若い頃、進歩的文化人と呼ばれる人たちがいて随分と偉そうな
顔をしていたものだが、その人たちがシュンとしてしまったのが、
いわゆる全共闘運動の成果の一つだったのでないかと思う。
要するに進歩的文化人というのは偉そうな顔をしたいひと、人の上にたって
下のものを指導する立場にあることに快感を感じるひとが、その大勢を占めていて、
その時々で偉そうな顔をできる問題を探し当てて、そこに参加してくる
わけであるが、もとより一兵卒として働くつもりはさらさらない。
大学教授などというのにはそういう人がたくさんいて、その学説は民主的、
教室では暴君などというひとが掃いて捨てるほどいた。
鹿島氏がいう ‟solidarité” はこれとはまったく異なるものであるが、
日本にはこれは根付かないような気がする。
なにしろ日本では上下関係がわからないと対人関係がはじまらない。
それゆえの名刺交換である。
如何だったでしょうか?
これらの読後感想文を詠んだだけでも意味不明で頭が痛くなりませんか?
しかし私はここに大いなる興味の虫が湧いて出て来るのです。