三者火宅の教え




私はこの教えを友人から寄贈された「法華経の新しい解釈」で知った。
今回は基本的な宗教の捉え方を「日本人の宗教観」と合わせて考えたい。

「妙法蓮華経の持久走 法華七諭」
法華七諭とは、妙法蓮華経に説かれる七つの譬え話で、妙法蓮華経の理解を促します。
三車火宅の譬えは妙法蓮華経譬諭品第三に説かれます。
お釈迦さまが、舎利弗尊者に説かれます。

子供がたくさんいる長者がいました。家が火事になり、長者は逃げ出せましたが、
子供たちは燃える家の中で遊んでいます。長者は火事から逃げるよう言いますが、
子供たちは遊びに夢中なのと、火事の恐ろしさを知らずに家から出てきません。 
そこで長者は子供たちが欲しがっていた、羊が引く宝で飾られた車、鹿が引く宝の車、
牛が引く宝の車を用意したから、家から出てきなさいと言いました。
すると子供たちは火事の家から出てくることができました。
子供たちが宝の車をねだると、子供たちの予想を超える、真っ白な大きな牛の引く
宝の車が子供たちに与えられました。
 
この諭では、長者がお釈迦さま、子供が舎利弗尊者をはじめとする弟子たちに
あたります。お釈迦さまにとって人々は、火事の中で遊ぶ子供のようなのです。
人々を導きたいのですが、火事の中の子供のように耳を貸しません。
そこで、お釈迦さまは、人々が望む教えを説きます。
その教えは初心の修行者のものであったり、高等な教えであったりし、
この教えは羊車、鹿車、牛車にあたります。喜んで人々は弟子となり、
おのおのが望む修行をしていましたが、お釈迦さまが、本当に伝えたかったのは
妙法蓮華経であり、真っ白な大きな牛の引く宝の車が妙法蓮華経にあたります。

空海の教え
「損すれど盈(み)を招く」とは、
一見報われなくても誠実な心は、
やがて人との関係に豊かさをもたらすという教えです。
盈(み)は満たす・満ちるなどの意味を持つ

仏教では大日如来が真言宗では、大宇宙の数え切れない仏の中の最高の仏とされ、
大宇宙そのものとか、森羅万象がおさまっているともいわれます。
これらの「法界身」が大日如来のことで、「法界」とは、大宇宙のことですから、
大日如来は、大宇宙そのもので、他の諸仏菩薩の中心と言われたりします。
大日如来が最高仏だという人は、実はこれらを根拠に、大日如来を最高の仏として
いるのです。

神道では「森羅万象のなかにこそ神々が宿る」と解釈しています。
これは「八百万の神々(やおよろずのかみがみ。八百万の神とも)」の考え方に
沿ったものであり、アミニズム(霊魂主義。自然のなかに神々が宿るとする考え)
ともつながるものといえます。
神道におけるこの「森羅万象」という言葉の解釈は、日本古来の宗教観に
近しいものだといえるでしょう。「お米にはたくさんの神様が宿っているから、
丁寧に食べなければだめだ」と教育された人も多いと思われますが、
これは神道の「森羅万象に神々が宿る」という価値観によるものだと推測されます。

また神道においては、「神々はもともと、ご神体を持たない。
しかし清らかな事物に宿ることで、人にその存在をアピールしてきた」
と考えています。
神道における「祭り」は、この「森羅万象に宿る目には見えない神々」を、
居住まいを正してお迎えしようというところからきています。

キリスト教では「森羅万象は、すべて神によって造られた」と考える。
そしてその森羅万象は、自らの親である神の意志の通りに動くものであるとしています。

森羅万象と神の関係は、神>森羅万象であり、森羅万象は決して神を超えることはありません。

「森羅万象を解き明かすことなど絶対にできないと受け入れることが
『信仰』である」ともしています。
キリスト教では、「森羅万象を解明しようとすることには意味があるが、
どれだけ取り組んだとしても森羅万象のすべてを解き明かすことはできない。
また少しだけ解明されたとしても、結局はもっと大きな暗闇のなかにいることに
気づかされるだろう。しかしこの『大きな暗闇』にぶつかったとしても、
森羅万象を司る神は我々人間を導いてくれるのではないか」としています。

「陰陽五行説」
宇宙、天の営みには偏りがなく、日月星辰は規則正しく運行し、春夏秋冬が
移り変わり、生命を生かす根源の水が木を育て、木が燃えて灰となり、
燃えた灰が土となり、土中から金である鉱物が産出し、金は水を生みます。
そこには互いを生かす連鎖があります。万物を分け隔てなく育み生かす意思があり、
それが「道(タオ」の心なのです。大切な真理を失わず「命」を陽として生きること。

「命」が「陽の人であるということは、宇宙の法則と調和することにつながり、
「道(タオ)とひとつになるということ」なのです。

地位や名誉、金銭は自分のためだけのものではなく、「他」を生かし、
「自分」もともに生かし合うものである。これを忘れず陽の意識を連鎖させて
吉の流れを作り、自他ともに繁栄する。この意識を持つことが「宇宙の徳」と
調和することなのです。

「魂」とは
意識→信念→心→魂→悟り
「宗教」には、「魂」と「神」がつきものである
近代の我々が宗教に抵抗を感じるのは、この魂と神に対してである。
科学ではその存在を証明できないからである。どうも無いらしい。
ではないのか。無いものを無いと証明することは難しい。
それに魂・神は、科学・理性の取扱範囲外のものである。
だから存在の証明はできていないし、同時に否定もしきれてはいない。
だから宗教を否定する時には、そんなものは存在しないと思うし、
宗教を肯定する時には、否定できていないから存在するのだと言う。
人は誰でもこの両方の間で揺れ動く。どちらかに決着を付けてすっきりしたいが、
これは決着の付けようがない。それが人間である。
 
すでに述べたように、理性・科学が人間の全てではない。
人間は、科学・理性を越えている。
だから人間の「宗教心」からすれば、「魂」の存在が証明できるか
できないかなど関係ない。科学ともほとんど関係はない。
「魂」は人間を越えたものである。邪悪な魂も考えられるが、
ふつう「神聖」なものである。そしてそれは「神」に通ずる。
我々は死者に掌を合わせている。それはその神聖なものに掌を合わせ、
拝んでいるのである。
 
あるかないか分からないのに、それをありがたがって拝む。
それは人間が蒙昧さなのか。むしろそれは、人間の心の不思議さ、
深さではないか。
この心を人間から無くしてしまったら、人間の最も大事なものが
失われるのではないか。人間の崇高さはなくなってしまう。
それは人間だけに与えられた不思議な能力である。
だから人は、魂や神を認め、それを拝む。

魂や神は、人間だけに認められるものではない。太陽や月、山や巨木、
その他いろいろなものに対しても、何か精神的な神聖さを感じ、拝もうとする。
それがむしろ人間の素朴で自然な心ではないか。
西洋一神教の影響で考えてはいけない。一神教が高級でも何でもない。
一神教には無理がある。だから不寛容で、他を破壊しようとする。
自然な宗教にはそれがない。
 
例えば「針供養」がある。使い古した針を、お世話になりました、と豆腐に刺して
供養をする。
あなたは針供養教の信者ですか、針が成仏しますか、等と言う人はいない。
非科学的でも、迷妄でもない。ほほ笑ましい心ではないか。
一神教ではこんなことはできないから気の毒である。

富士山や大峰山を拝んでいる人がいる。この人は富士山教の信者でも大峰教の
信者でもない。ご本尊は何ですか、教義はどうですか、等と言う人もいない。
その教えを「信じるか」「信じないか」等と決断を迫られたら、
日本人ならみんな逃げ出すだろう。
 
だから日本人は「私は無宗教です」と言うが、それは「宗教心がない」
ということではない。これを海外の人に伝えるのは難しい。
私は問われるたびに返答に困った。