哲学への誘い




西洋哲学と日本哲学の難解さには大きな違いがある。
西洋哲学の追求は宗教(特にキリスト教)の教えに抵触しないかの
壁が立ちはだかる。
たとえば地球が宇宙の中心にあり、すべての天体が地球の周りを回っている
とする天動説と、太陽が宇宙の中心にあり、地球や他の惑星がその周りを
回っているという地動説。
日本のアニメ「ち」を見ると、いかに真実を広めるのに教会が壁となって
邪魔をしていたかが分かる。天動説を唱えていたキリスト教にとって地動説は
神の教えにおおきく反するもので全てが異端で犯罪人、国中の隅々まで異端審問官を
派遣して拷問にかけて殺してしまう。現代でも全ての戦争の原因がこれに付随する。
聖書に出て来る「天地創造」この世は六日間と安息日を入れて七日間で作られた
という説も何人たりとも疑ってはならぬ。疑うイコール異端児として扱うのである
過去の常識がすべて正しいとする考えには無理がある。

それに反して日本哲学は仏教に影響されていることがおおうにある。
人間の真理を追究する時に西洋では科学の進化が大いに役立ったが、
東洋では精神論に起因する曖昧な物語が多い気がする。
しかし、そこには修行僧の英知がこめられていて大方の悩みは解決する。
もともと神仏習合のおおらかな国であるから宗教もオープンである。
勿論、昔から宗派同志のいざこざはあったが相手方を殺すほどではなかった。
哲学の謎解きは「無一物」最初から何もない、「不立文字」文字で表せない、
「只管打坐」座禅を組んで座り続けろ。何も考えるな!心を解放しろ!である。
日本の禅を通じて英語で日本人の哲学思考を書き表した鈴木大拙の功労は大きい。
それ以外に西田幾多郎、田辺元、九鬼周造、三木清、和辻哲郎、森信三などが
挙げられる。昔は哲学に嵌ると気が狂うから読むなと言われていた。

ここに令和哲学の長岡美妃先生が書いている文章がある。
とても分かりやすく書かれているので全文を紹介したい。

私の哲学論は「生きる為の自分への手引書」である。
なぜ哲学が貧しい人々に響くのか?
哲学をするということ、すなわち真理を追求するということについて。

「なんでそんな難しいを考えるのか?」と言われる。
もっと世間一般的なことや感覚的なことよりも、知りたい「問い」が
あるのだ。病とは何か?人間とは何か?生死とは何か?苦しみとは何か?
現実とは何か?…その「問い」が私を哲学的思惟に誘う。

ヴィトゲンシュタインの哲学をまとめ出会った言葉がある。
彼は言う。「人間の体には水面に浮かび上がる自然な傾向があって、
水の底へと潜るには努力しなければならない。
それと同様に、哲学的に思考をするためには、その自然の傾向性に
逆らって水の底へと潜っていく努力が必要である」と。
逆もまた真なりということか?

人間の初期設定のまま、つまりは世界に投げ出された状態のまま、
目で見て、耳で聞いて、世界というモノサシを当然と思って生きるだけでは
何も分からなかった。水面に浮かび世間一般の楽しみや感覚的な満足に
浸るより、水の底にある真理を知りたいという渇望がうごめく。
だから私は哲学的思惟を起こす。

人は誰もがいずれスピリチュアルペインに出会う。
その時、何者かに向かって叫ぶように問う。「人間とは何か?」
「この苦しみとは何か?」「生きるとは何か?」「死ぬとは何か?」を・・・
その問いを投げるのが今なのか、先なのかの違いだけ。哲学は特別な人が
する学問ではない。人間の根源を問う、人間にとって第一優先にされるものない

人間はみな孤独である。
それを自覚したくないが為に日常に埋没する生き方を選ぶとハイデガーは言う。
世間話や薄っぺらい好奇心や曖昧な話に終始し続け、そこになんら責任は
発生しない関係性を続けるのだ。

そしてそれでも感じる孤独の穴を埋めようと、悲劇のヒロインを装い
人の関心を引こうとする。「自分はこんなに酷い状態だ」「自分は可哀想な存在だ」
「自分は慰められて当然だ」というストーリーを作り出し、
食肉植物のように誘い込む。誰かがストーリーに乗ってきたならば、
「よし掛かった!」とばかりにストーリーを炸裂させ、相手からエネルギーを
吸い取っていく。そしてこれが生きる活力源となる。

このような関係性は共依存であり、どちらかが完全に目を覚さない限り同じ
ループを永遠に繰り返す。なぜならこのループには
ある種の悦びが付き纏うからだ。それは人間の根源的な痛みである孤独を
麻痺させてくれるという甘い蜜。この蜜の味を締めているため蜜を
取り上げようとするものなら、強烈に抵抗する。孤独と対峙させられる
からである。

しかし人間は孤独なのだ。「体が自分だ」と思っている限り、人と人とは分かり
合うことはない。この絶望を受け入れられるかどうか・・・もし受け入れる
勇気を持つならば、永遠ループから抜け出せるだろう。甘い蜜を「偽物だ!」
と喝破して真の犯人を探しに行く。「こんなにも孤独を生み出す張本人は
誰なのか?」と自らの内に問うていく。そしてそれが真の問いのスタート地点となる。
非本来的な生き方から本来的な生き方に変わる瞬間。

そして真の問いのスタート地点に立ったならば、後は哲学的思惟で問いを
投げ続ければゴールに辿り着く。「はじめから何もなかった」のだと、
「なにもはじまっていなかった」のだと、「すべては一元であった」のだと、
「孤独は幻想にすぎなかった」のだと。

人間は孤独でもある。しかし「知った」瞬間、目の前の現実は
何も変わらないのにすべてが変わっていることを認識する。
以上。
この話の真意は理解できたでしょうか?

米イエール大学助教授成田悠輔がバンタン卒業式での言葉に哲学が存在する。
2000年前ローマ帝国のマルクス・アウレリウス皇帝が言った言葉に
「投げられた石にとって登っていくことが良いことでもないし
落ちていくことが悪いことでもない」この哲学的な言葉の意図は何か!

「ご卒業おめでとうございます」は何がおめでたいのか?
ゲストの成功話をする人がお決まりのパターンである。
人生はどんなに頑張ってもたいしたものにはならないのです。
たまたま運と出くわし、運が良かった人が成功しただけで、
そんな人の話は聞いてもあまり意味が無い。

上手くいくかは分からない未だ試されていない領域へ足を踏み出してみる。
一歩踏み出す勇気、それにはコンプラ社会で実験てきなことを試してみる。
その方法は「幼児性」・「異国性」・「武士性」の三要素が重要である。
幼児性、子どもであるとか子供になる。裸の王様という物語を知っているか。
もともとのタイトルは「王様の新しい服」です。
詐欺師集団が王様に「世にも不思議な透明の服」を作りましたと差し出す。
大人たちは王様が偉い人なので裸のままに歩いていても、素晴らしい服ですねと
見えない服をほめちぎる、しかし一人の少年が「王様は裸だ」と言ってしまった。
みんな馬鹿になれ、無知になれ、世間に迎合するな。

異国性、外国人は好き勝手に言える。日本に忖度しない。外に属している。
この二つは外から変革を求めている。
日本人の同調主義は「空気を読む」という風に反論はご法度なのです。
そこを異国性でズケズケとものを申さなければならない。
内に属していない外から勝手にものを申す。

武士性、社会を変化させるには内側から変える。周りと一緒に没落しよう。
この潔さが武士性である。明治維新のときのように在野の下級武士が集まり
徳川幕府を倒そうとした精神=武士性は、外に変革を頼るのではなく
自らから死を覚悟して変革に臨んだのである。

「成功するより没落しよう。ニコニコと没落しよう」
当時大蔵大臣であった渋沢栄一にGHQから財閥解体の指令が来た。
協力すれば渋沢財閥だけは助けてやろうと言われたときに、構わない
我々も他の財閥同様に解体して「笑って没落する」といった回答をしたという。
「ニコ没」、ニコニコ笑って没落しよう。潔い破壊からしか創造は生まれて来ない。

社会や経済を次のステージに持っていくために自分達も解体していく。
自分達の成功や成功システムを解体していかなければ次に向かえない。
「投げられた石にとって登っていくことが良いことでもないし
落ちていくことが悪いことでもない」卒業生はこれから投げられて石になる。
合言葉は成功するより没落しよう。

世の中が常識として捉えている事柄に反抗しなければ真実は見えてこない。
知識は迎合であり、哲学は苦悩である。疑問を持ち悩むことから始めよう。
成田悠輔は変態であり、個人主義であり、屁理屈屋である。
村おこしの時には「若者・よそ者・馬鹿者」がいなければならない。
絶対的に馬鹿者の部類だが彼のように人間からしか新しい社会は生まれない。
どちらかというと私も同じ部類の人間であることは確かである。