この世とは
あの世(死後の世界)とこの世(現生の世界)
あの世を知るためには仏教を学ばなければなりません。
この世を知るためには哲学を学ばなければなりません。
この二つの世界を行き来するには感知能力が必要です。
多くの学問は文字を見て覚えることから始めます。
感知能力は何もしないで座ったままでするのです。
禅の世界の「只管打坐」は余念を交えず、ただひたすら座禅することです。
我々人間が現在暮らしていると思っている(認識している)世界、
または、その認識。日本語では「顕世(けんせ)」とも読み書きし、
「この世」とも言い換えられる。
仏教用語としての「現世」は「げんぜ」とも読む。
自身が輪廻転生していくなかで今生きて属している(生を受けた)
この世界のことを指す。彼岸に対する此岸。
現世に対置される世界としては、仏教では、前世、来世(それに加えて
地獄が語られることも)。
神道では常世・常夜(とこよ)、幽世・隠世(かくりよ)などがある。
キリスト教では、天国、地獄(陰府)などがある。
神道では「現世」と書いて古語としては「うつしよ」と読み、
この世や人の生きる現実世界を意味する。それに対峙して、
常世(とこよ)いわゆる天国や桃源郷や理想郷としての神の国があり、
常夜(とこよ)と言われるいわゆる地獄としての死者の国や黄泉の国と
捉えている世界観がある。
ただし、常世と現世として二律背反や二律双生の世界観が基本であり、
常世・神の国には2つの様相があり、このことは常世(常夜と常世は夜と昼とも
表される)が神の国としての二面性を持つことと、荒ぶる神と和ぎる神という
日本の神の2つのあり方にも通じるものである。
古神道の始まりといわれる神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰の森林や山・
岩などの巨木や巨石は、神の依り代と同時に、籬は垣(かき)の意味で磐座は
磐境(いわさかい)ともいい、常世と現世の端境を表す神域でもある。
神社神道においても鎮守の森や植栽された広葉常緑樹は、神域を表すと同時に
結界でもあり、常世(神域)と現世の各々の事象が簡単に行き来できないように
するための物であり、禁足地になっている場所も多い。
また、集落につながる道の辻に置かれる石造の祠や道祖神や地蔵なども、
厄除けや祈願祈念の信仰の対象だけでなく、現世と常世の端境にある結界を意味する
といわれる。現世における昼と夜の端境である夕刻も常夜との端境であるとも
考えられ、この時分を「逢魔時(おうまがとき)」といって、
現世に存在しないものと出遭う時刻であると考えられている。
仏教における「三世」の一つであり、前世、今世、来世 のうちの今世に該当する。
また、時間的な前後は別として、浄土教では「厭離穢土・欣求浄土」の概念がある。
「穢土」とは「穢(けが)れた世」という意味で、現世にあたる。
『金剛般若経』では「一切の有為の法は、夢幻泡影の如し」とあり、
現世を夢幻、泡のように儚いものとして把握していたことが窺える。
このように仏教では現世を否定的に捉えていた。
長岡美妃医師投稿
「この世」は、なんて掴みどころのない世界なんだろう・・・。
真実は目に見えず、耳で聞こえず、鼻で嗅ぐこともできず、
舌で味わうことも触れることもできない。
まるで雲の中にいるような輪郭のない世界、それがこの世界。
灼熱の砂漠で見える蜃気楼を実在と思い込み、有りもしない存在に
右往左往されながら生きる人間模様。
自分が見ているものに真実は一切ない。正誤、善悪は元より、
生死を分つ存在すら実在ではない。
雲のように、あったと思った次の瞬間それは消えてなくなる陽炎。
人生は長い旅路だと言うが、そんなものは瞬間の点のような出来事である。
そしてその点すら、実在ではないのだ。
人は世界の儚さを無意識深く知っているが故、
執着という接着剤で世界を確かなるものにしようとする。
しかし実在なきものを止めようとする行為は、
四苦八苦を人に与える結末になる。
いつまで人は四苦八苦のループの中を彷徨のだろうか・・・
それは人が「世界は実在ではない」ことを見抜く眼を開くまでであろう。
時代が人類にwake up callを投げている。
VR-AR-MRを人々が当たり前のように使い始めた時には、
どんなに現実にしがみつきたい人々も
「世界がコンピューターシミュレーション」
となんら変わらないことに気が付くだろう。
「実在でない世界を、実在以上の奇跡として思いっきり生きていけ!」
これが未来世界の合言葉!
如何でしょうか?
消化器外科医長岡美妃は医師と言う立場の中で常に人間の行く末を考えている。
そして令和の哲学者は「世界は実在ではない」と言い切る。
実在の反対は架空である。架空は実在しないことを意味する。
令和哲学主宰者ノジェス氏(来日29年)と共に歩む。
令和哲学カフェ、アモールファティ、BEST BEINGなどの活動を行い、
日本文化の意識から世界を変える活動を行っている。
私も私塾で「恩学塾」「男塾」「経営塾」などを開催したことがある。
今でも「恩学」のタイトルでブログを発信している。
この世に生があるうちは書き続けようと思うが間もなく666作になる。
ときおり全国の読者からお褒めの言葉をいただくので終了のタイミングを失った。
昨年末からは「一日一枚・一日一言」を毎朝投稿している。
土日も休まず投稿しているのですでにあっという間に70作を超えた。
老人が出来る最後の御奉公だと早朝に文章を書いている。
夜と昼の結界の時間である。
本日の「この世とは」いかがだったでしょうか?
あの世を知ってこの世を大切にお過ごしください。