人は3回生き返る
アーティストの伊丹谷良介から紹介されてNetflixでプレスリーの映画を見た。
タイトルは「リターン・オブ・キング・エルビス・プレスリー」
その中で「人は3回生き変える」と言う言葉が気になった。
プレスリーの場合は、
①デビュー(動きが卑猥と禁止された)&入隊(髪型の変化)<断念>
②映画トム・パーカー大佐(歌手よりも俳優で儲けようとした)<無謀>
③復活1968年NBCテレビ特番(歌手として復活)<復活>
世界史上最も売れたソロアーティスト、エルビス・プレスリー
(以下、エルヴィス)。彼がいなければ、ビートルズも、クイーンも
存在しなかった。 そんなキャッチコピーに惹かれて観劇した
映画『エルヴィス』。プレスリーという名前は誰もが知るところだが、
ビートルズやストーンズ以降のロックアーティストに比べると、
それ以前を生きたプレスリーを深く知ろうとすることはあまり
無かったように思う。
エルヴィスは黒人に対する人種差別が当たり前のようにあった時代、
ミシシッピ州の黒人居住区にある貧しい白人専用住宅で育った。
映画の中でも描かれているが、エルヴィスのコンサート会場が
白人エリアと黒人エリアに明確に分けられていたそんな時代だ。
いまとなっては信じられないが、黒人が聴く音楽は「公序良俗に害するもの」
としてオミットもされていた。そんな時代にエルヴィスは、
黒人カルチャーの中でブルースやR&Bを浴びるように聴いて育っていく。
そんなバックグラウンドを持ち、黒人音楽であるブルースやR&Bと
白人音楽であるカントリー&ウエスタンを融合し、それまでになかった
斬新な音楽スタイル・ロックンロールを生み出していく。
エルヴィスの中では肌の色の違いにこだわりなどなかった。あったのは自分の音楽
スタイルで歌うのだという強い意志と、それを表現する圧倒的な才能と情熱だ。
エルヴィスが最初にレコーディングし「サン・レコード」からリリースされた
「That’s All Right」。68年の時を経て最近オフィシャルのミュージックビデオが
公開された。
また、それまで見たこともなかった扇情的な腰の動きをさせながら
オーディエンスを煽っていく姿に、女性たちは歓喜し熱狂した。
興奮したファンが下着を脱ぎステージに投げ入れる現象も巻き起こした。
そんな熱狂が瞬く間に全米へ広がるにつれ、センセーショナルすぎる
ロックンロールと腰振りダンスは大人社会の大きな反発も生んでいく。
また白人が黒人の音楽を歌っているというだけで、テレビ局や保守的な団体、
政治家などから激しい批判を受けたり、エルヴィスのパフォーマンスが
猥褻であるとしてPTAや警察から公衆の前で歌うことを禁止されたりもした。
しかしエルヴィスは自分の信念を変えず、自分だけにしかできない
ロックンロールを追求していく。エルヴィスは〈キング・オブ・ロックンロール〉
と称されているが、そう言われるようになった背景をこれまで深く知る機会は
なかった。
映画『エルヴィス』では、その経緯が見応えたっぷりに描かれている。
またエルヴィスから莫大な金を搾取したと言われる敏腕プロモーターの
トム・パーカー大佐の暗躍ストーリーや、プレスリーの家族への愛、
そして心身ともに困憊していく姿なども知ることができるドキュメント的な
要素も大きい。2時間39分という大作だが、エルヴィスの名曲とともに
描かれているので時間をまったく感じさせないものだった。
中学生(1964年)の時に不良グループが固まって歌を歌っていた。
それまで歌謡曲と演歌しか聞いていなかった学生達には謎のメロディーだった。
英国出身のビートルズの「A Hard Days Night」を箒の柄をマイク代わりに歌っていた。
それまで不良イコール馬鹿だと思っていたのが180度尊敬に変わった。
まるで稲妻に打たれたような衝撃だった。
ビートルズのリーダーだったポールマッカトニーはプレスリーから受けた
影響は計り知れないと発言している。勿論その当時のアメリカの音楽に感化されて
初期のビートルズの楽曲が作られたと言っても過言ではない。
プレスリーを筆頭とする白人のR&Rロカビリーは瞬く間に一世を風靡した。
ビートルズが影響を受けたと思われるアーティストは、プレスリーをはじめ
バディ・ホリー、ロイ・オービンソン、ジェリー・リー・ルイス、
カール・パーキンス、エディ・コクランなどがあげられる。
それぞれのアーティストが独特のR&R・サウンドを作り上げ、チャック・ベリーを
はじめとする黒人勢と並び、ビートルズに、また60年代のポップ・ロックの
世界に大きな影響を与えました。
ビートルズのスタイルといえばマッシュルーム・カットと襟なしスーツという
イメージの人が多いと思いますが、それはあくまでもデビューした後のこと。
デビュー前の「革ジャン・リーゼント」スタイルのビートルズのメンバーの写真を
見たことのある人なら、ロカビリーからの影響はサウンド面のみならず
そのスタイルまでに及んでいたことは一目瞭然ですね。
その頃日本では歌謡曲に交じってGS(グループサウンズ)が登場した。
スパイダース、ブルーコメッツ、タイガーズなども、プレスリー、
ビートルズ、ローリングストーンズ、などのロックンロールの影響をうけた
グループとブルースロックの影響を受けたゴールデンカップスやテンプターズなどの
二派にわかれた。前者はプロの作曲家が作った作品が多く、
後者は洋楽中心でオリジナルに拘りをもつ本格的なグループの存在である。
60年代当時の日本では、長髪やエレキギターといった要素は不良、
若者の非行に結び付けられ、一般社会からの風当たりは非常に強かった。
そのため、グループサウンズのコンサートを見に行った高校生は停学
もしくは退学処分を下される学校もあった。コンサートに行くこと自体を
禁止する中学・高校が続出した。
事故防止のためグループサウンズのバンドにはコンサート会場を提供しないという
劇場や自治体が現れた。今では笑い話のように聞こえるが、当時の日本では
これが当たり前の社会であったことは確かである。
私はグループサウンズには一切興味が無く、英国のフォークシンガー・ドノバンや
米国のボブディランに憧れてハーモニカーを吹きながらギターをかき鳴らした。
勿論、長髪に口髭、破れたジーパンを履いていたので完全に不良のレッテルを貼られた。
1969年大学へ行けば学生デモが盛んな時代、教室にもバリケードが張られて、
何もかも厭になり日本脱出を計画した。
1972年に一番安い北回りでロンドンに入った。
ビートルズやローリングストーンズ、レッドツェペリンなどが育った国は
活気に満ちていて、何もかもが興奮の連続で人生最高の時期だったと思う。
そして1年半の滞在の後に帰国した。
レコード会社CBSSONYに入社してプロデューサーとして第二の人生が始まった。
私にとっての第一の人生は苦労した学生時代音楽に触れた最初の時代である。
そして第二の人生は音楽プロデューサーとしてデビューした時である。
そして第三の人生は一度音楽の世界から出て海外ビジネスを始めた時だった。
コンピューター関係の会社の繋がりで韓国に映画会社を立ち上げたこともあった。
その後中国から呼ばれて音楽事業や知財関係の仕事もした。
2010年に入りファッションスクールの理事や企業の顧問も引き受けた。
そいうわけで私も三回生き返る経験をした。
2025年今また音楽に軸足を置いた仕事に取り掛かっている。
75歳の大胆なチャレンジである。