人の処世術




今見える人をどの様に判断しますか?
容姿ですか?経歴ですか?仕事の実績ですか?
それとも自分にとって好意的か戦闘的かですか?
その人の才能や人間性は見た目だけでは分かりませんよね。
同じように自分も誰かに上辺だけを見られているのです。

森に生まれた人は森の全てを掌握しています。
海で生まれた人も海の全てを把握しています。
森や海で育った人は自然が相手ですから、人間の力で作為的に
変化させることはしてはいけないことを知っています。

また都会で生まれた人は情報の洪水の中にいます。
そこには真実は無く虚栄の社会が潜んでいるだけです。
早く自分なりの情報を取り込み、戦う準備をしなければなりません。
自分を知って自分の方向を決めるのです。

例えば目の前の混んでいる電車に乗るべきか一本遅らせるべきか
考えた時に、あなたは飛び乗りますか、それとも次の電車を待ちますか?
若い時の私は何がなんでも飛び乗りました。
少しでも早く到着場所に着きたいために無理に身体を車内へ押し込んでも、
乗り込むことをしていたのです。しかしここに心の余裕はありません。

団塊の世代は高度成長期の真っ只中で「我先に!」が合言葉でした。
人を押し除けてでも前に出ることが一番と勘違いをしていたのです。

人は自分本位の価値観で行動を決めます。
自分が正しいと思うので迷いはありません。
本来は他人と身体を触れ合うことも嫌うのに通勤だからといって我慢します。
確かにそれで日本はGNP第二位のランクまで上がり、人々の暮らしは
良くなったのですが、調子に乗り株やギャンブルに手を出して、破滅する人も
多くみられました。その上にバブルが弾けて一文無しになった人も大勢いました。

これと同じ様に人とのお付き合いも仕事だから仕方なく
承認するのが大人の行動だと考えて我慢をします。
しかしそれらの辛さを我慢するのが人生ではありません。
自分の成し遂げたいことを目標として生きるのが人生です。
浮かれた情報に惑わされて自分を見失わないようにしなければなりません。

以前のブログでもご紹介したのですが、
吊り橋の前で老婆がいて「危険な吊り橋を渡るのも、
少し遠回りして向こう岸に渡るのも自分で選びなさいと
問いかけられます」あなたはどちらを選ぶタイプですか?

人生で悩む時には必ず自分本位で決断を迫られます。
成功する人は必ず急ぐことでは無く良き答えを探します。
失敗する人はとりあえず急いで渡り切ろうとして結果を求めます。
その時の気分で決めるのでは無く
計画に沿った考え方で選ばなければなりません。

その為には時流を読むという力が必要になります。
季節も人もその時の時流を読まなければならないという事です。
時流とは、その時代の社会一般の風潮や思想の傾向を指します。
向こう岸へ渡るときには季節の変化も考慮しなければなります。

この様な禅語があります。

禅の逸話に「放下著(ほうげじゃく)という語がある。
 「本来無一物」=(全てに対する執着を捨て切った)
お悟りを自負する弟子の厳陽尊者は、師匠である趙州和尚に尋ねた。
「私は全てを捨てて、もはや拘泥する何ものをも、もっておりません。
この先どんな修行をすれば良いのでしょう?」と。
すると師匠は間髪入れず「捨て去ってしまえ!」。
弟子は納得のゆかず「一体何を?」。最後には「その、なにもないとの意識を
どこまでも担いで行け!」と一喝されてしまいます。 

とかく過去への未練やプライド、培ってきた思い込み、先入観、
苦手意識が楔(くさび)となり、言い訳となって、新たな自分への脱皮を妨げ、
自分で自分を苦しめてしまう私達。 満開の花びらが散り終わって葉桜となる
染井吉野に対し、山桜の一種「大山桜」がある。 

大ぶりな少し濃い桃色の花弁が開くと同時に滑滑(ぬめぬめ)とした
立派な葉がその存在感を際立たせて見事だ。 
新たな環境に踏み出したのには、必ずやむを得ない理由があり、
決して甘美な過去には戻れない。
しかし、その離別の最中、既に新たな環境に適合できる力を
私たちは内部に育んできているのだ。

それを信じて、まっさらな裸の心で、目の前の一つ一つの事柄に、
誠実に取り組んでゆくことで、必ず事態は切り開かれる。 
潔(いさぎよ)く次の季節に向かう自然の移ろいにじっくりと目を凝らし、
わたくしに内在する大いなる命の営みを感じ取る好時節でもあろうか。

先を急いだからといって人よりも早く幸福になるわけではありません。
その時期にはその時期の花しか咲かないのです。無理に急いでも桜は、
その季節にしか咲きません。あなたの人生にとって花開くときは必ず来るのです。
慌てても無理なものは無理なのです。
凡人の欲も執着もかなぐり捨てて「無一物」になる事が必要です。

若き人が順調な時に「無一物」といわれてもピンときません。
自分が選ばれし人間だと過信する心が無謀な選択をするのです。
残念ですが「悟り人は教義に学び凡人は経験に学ぶ」ことしかできません。
その為に苦労が襲い掛かる危険な道を選んでしまうのです。

お気を付けて人生の選択をしてください。