賀茂真淵
ピーターノスコの「江戸社会と国学」原郷への回帰を読んだ。
今まで米国の日本近世思想史の優れた本は数多くある。
ヘルマンーオームス「徳川イデオロギー」ビクターコシュマン「水戸イデオロギー」などである。
第二次世界大戦直後には日本研究の名著「菊と刀」がルースベネディクトによって書かれている。
何故、他国に比べてこれほどまで米国で日本研究と分析が行われているのか不思議である。
「江戸社会と国学」の中に賀茂真淵の章がある。
特に気になった個所をここに紹介する。
日本の国学者賀茂真淵は「国家八論」の論争の中で、古代の社会と政治の中に生きる人々の調和は、
歌(万葉集)の発露によって支えられていたことが明らかとなる。
心にうれしみあり悲しみありし
こひしもありにくしみあり
こをしぬばぬときは言に出てうたふ
うたふにつけては五つ七つのことばなむ有ける
こはおのずから天つちのしらべにしあれは
真淵はそれより十年前に、歌を詠むことは激しい感情的な体験の表出になると記したが、
それは今や、韻律によって宇宙のリズムに順応し、そのリズムを写しとることを意味するようになった。
真淵は古代の歌の美しさを、古代の政治の静謐な断片であると見なした。
そして古代の政治とは、天地を調和しまたそれを満たし、そして「壮大で汚れのない道」を
制定する天皇を戴くものであった。
だからこそ、古代の完璧さは歌、政治、そして一人ひとりの人間の行動のいずれにも見い出すことができるのである。
そしてそれは、宇宙原理に適合している様々な要素が相互に補強し合うところにのみ起こりうる。
稀に見る現象であった。
真淵が主張した古代の政治、人々の行動、そして歌を詠むことの三領域は、
相互に依存しあっていたがゆえに、これら三つのうちの一つが壊れると、全組織の崩壊につながった。
これが、真淵が説く古代の完璧さの喪出と当代の堕落の理由であった。
ある失われた時代に対する感傷的な憧憬をノスタルジアという。
荷田春満・賀茂真淵・本居宣長の重要な関心はノスタルジアであり、
古典の文献学的研究を通してノスタルジックなイメージが育まれ、ついには愛国的なイデオロギーが創出された。
いにしえの「道」は再現可能であり、「まごころ」を再生することはできると主張して、
古代へのノスタルジアを喚起した賀茂真淵なのである。
「古代の完璧さは歌、政治、そして一人ひとりの人間の行動のいずれにも見い出すことができるのである。」
真淵の生きた徳川時代は、将軍のどもりを、自分だけが解釈できるという御用人に牛耳られていた。
この時代に真淵は古代の言葉の「素直」さと「直接」さについて注釈したのだった。
言葉の過剰さを不要とした古の心の誠実さと真実について論評したのである。
長く続いた平和の中で武士階級は総じて活力が落ち弱体化の兆候を見せていた。
この時期に真淵は古代人の雄雄しさと活力について記述したのである。
日本人が漢語及び漢語で書かれた作品に心惹かれ、そして心酔したことで、古代の政治、
人々の行動、歌よみの三位一体の完璧さが崩壊したのである。
真淵の理想化した古代についての記述、古代の歌を通して古代に再び入ろうとする試み、
また古代に付随する美徳の再生、国学者賀茂真淵のノスタルジックな考え方に賛否があったとしても、
時折、日本独特の歴史のルーツに触れるのも良いのではないでしょうか。
そこに「楽園のノスタルジア」が存在するかもしれません。