詩人
皆様も経験があるかもしれません。
美しい言葉とは感じる心と受け取る波長が
同じでなくては詩の本質を掴むことが出来ません。
また詩人の詩をいつでも同じように感じるかはその時の状況にもよります。
山に行ったことがない人が山にまつわる詩を読んでも心に響くことはありません。
海に言ったことがない人が海にまつわる詩を読んでも心に響くことはありません。
戦争の経験のない人が戦争にまつわる詩を読んでも心の響くことはありません。
しかしある時に見過ごしていた詩が腑に落ちることがあります。
今回ご紹介する詩人茨城のり子さんの詩を読んだ時に、当初、何を意図して
作られたのかは理解が出来ませんでした。しかし数年たってから読み直して
驚くほどの感動を覚えることが出来たのです。
私の経験と心の変化が理解できる脳になったのだと思います。
茨木のり子
1926年に大阪で生まれ、現・東邦大学薬学部在学中に空襲や勤労動員を体験し、
19歳のときに終戦を迎えた。1953年には川崎洋らと同人誌『櫂』を創刊。
彼女の詩集『自分の感受性くらい』『倚りかからず』などに綴られた
数々の名作は、今の時代も人々の心に響き続ける。
「内部からいつもくさってくる桃、平和」これは「内部からくさる桃」という詩。
1926年に生まれた茨木のり子にとって、かつて体験した戦争、敗戦、
その後の暮らしがとても重要で、詩やエッセイなどで折に触れ言及している。
この詩では夏に旬を迎える桃を取り上げたことで、同じく夏に終結した
第二次世界大戦、茨木のり子が体験した戦争を「平和」という単語の背景として
想起できる。そして「平和」は社会や世界という大きなところではなく、
自分自身を含む「ひとびと」の心の持ちように懸かっている。
毎年、桃が出回る時季になると、私はこのフレーズを思い出す。
果物の桃とは全く意味が異なるところで、平和というものはまさに桃の如く
内部から傷んでいくものというイメージを抱くようになった。
詩を読むことで受け取った警句として私の心に響いている。
茨木のり子の詩を通じて、描かれる「わたし」の輪郭の凛としたところに
感銘を受ける。自宅や街角、あるいは旅先で、手を動かし足を運ぶ日々の
営みによって言葉を醸していく方法は、日常の傍で一人考えながら
身近なものごとを見つめる孤独さと隣り合わせだと思うが、
そのような強さに憧れる。 そして好きな作品を一つ挙げるとしたら、
「波の音」(1977年刊行の詩集『自分の感受性くらい』収録)。
茨木のり子は「海」を心象風景として抱いていたようだ。
この詩でも波音が聴こえるが、内面に降りていくような静謐さがある。
茨木は夫を亡くした後に韓国語を始めたという。
この詩には、孤独でありながらも自分自身を支える時空間があるように思う。
詩人に問われるのは、まずはその作品だが、茨木のり子という詩人については、
その人格と詩とを切り離すことができず、存在まるごとが語り継がれる。
最後の最後、身の処し方までも含めて、一つの成熟した人格が、見事に生き切った
生涯だったと思う。
「波の音」という、一人、酒に酔う詩がある。
「波の音」
「酒注ぐ音は とくとくとく だが
カリタ カリタ と聴こえる国もあって
波の音は どぶん ざ ざ ざァなのに
チヤルサー チヤルサー と聴こえる国もある
澄酒を カリタ カリタ と傾けて
波音のチャルサー チヤルサー 捲き返す宿で
一人酔えば
なにもかもが洗い出されてくるような夜です
子供のころと 少しも違わぬ気性が居て
悲しみだけが ずっと深くなっていく
それを読むとこの詩人が、年々歳々、哀しみというものを、
深く熟成して生きた人だということがわかる。哀しみを知る人は、
人と深く出会った人でもあった。
誰かと「知り合う」のは簡単だが、深く「出会う」というのは
簡単なことではない。それは運命に属する恐ろしいことでもある。
「出会い」はいくつかの作品にもなっていて、たとえば韓国の
女性詩人との温かい友情は、「あのひとの棲む国」という素敵な一篇になった。
一番大きい出会いは、茨木のり子が49歳のときに亡くなった夫だったろう。
その人を恋う詩集が、茨木の死後に『歳月』という一冊にまとまっている。
「私」を慎んだ詩人の、秘められた官能が読み取れる。
しかし一篇を選ぶというなら、「わたしが一番きれいだったとき」
(1958年刊行の第二詩集『見えない配達夫』収録)を挙げたい。
「わたしが一番きれいだったとき」
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていった
とんでもないところから
青空が見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年をとってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね
高らかに歌うリズムは、焦土を闊歩する若い女性の靴音のよう。
明るい解放感とともに、戦争によって青春期を失った哀しみと、
空虚さが、青空に溶け、静かに詩の底を流れている。
戦後を代表する、もっとも美しくけなげな詩。今も私たちを、根底からゆるがす。
彼女が紡ぐ、飾らない真っ直ぐな言葉は温かく、そして力強い。
自立した精神性に惹かれる。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
というトドメの言葉に奮い立たされる。
部分的に日本近代文学研究者「矢部真紀」、詩人・小説家「小池昌代」の
対談から引用させていただきました。
余りにも私の感性と近くてどこをどう引用したのかが
分からなくなりました。笑い
ブログ上で勝手に3人対談といたしました。
皆様はどのように感じましたでしょうか。