ブライアン・エプスタイン
余りにも有名なビートルズ誕生秘話ですが、
私も何度も同じような経験をしています。
この投稿の最後に私の体験を掲載しています。
1961年12月13日、ブライアン・エプスタインの伝記から
彼はリバプールのレコード店の経営者で、当時ビートルズのマネジャーを
買って出ていた、ロンドンの大手レコードレーベルであるデッカの
A&R(アーティストの発掘・契約・育成や楽曲の制作を行う)担当である
マイク・スミスを、キャバーン・クラブに招待した。
ビートルズの演奏を生で聞かせるためだ。
ライブを観たスミスはビートルズをいたく気に入り、
翌年の1月1日にロンドンに来るようにと彼らに伝えた。
そして同じころ、ビートルズは『マージー・ビート』誌上で行われた
リバプールのバンド人気投票で、ジェリー&ザ・ペースメーカーズと
ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズを抑えて堂々1位に輝いた。
ビートルズのその年最後の仕事は、12月27日にキャバーンで開かれる
「ビートルズのクリスマス・パーティー」というイベントだった。
ところが直前になって、ドラマーのピートから体調を崩して参加できなく
なったと連絡が入った。
そこで代わりのドラマー候補として、3人が口をそろえて挙げた名前は、
リンゴ・スターだった。
セッションを終え、リバプールでデッカからの返答を待つ4人に、
ブライアンが言った。
「いいかい。たとえ僕がでかい仕事を取ってきても、
レザーの服のままじゃやらせてもらえないよ」
ジョンは答えた。
「わかった。スーツを着るよ。金になるなら、風船でも何でも着てやるよ!
別にレザーが大好きってわけじゃないからね」
これを聞いて、ポールもうなずいた。そろそろイメージを変えてもいいころだ。
「どちらにしても、全身レザーってのはそろそろ時代遅れだしね」
テレビに出るためにはスーツを着なくちゃいけない、というなら、
スーツを着るまでだ。ひらひらしたドレスだろうが何だろうが、
ライブがやれるなら何でもよかった」
「ブライアンは、僕らのイメージをクリーンにしようとしていた。
僕らは、ブライアンについていくことにした」
1月29日月曜日、ブライアンはビートルズをバーケンヘッドにある
ベノ・ドーンの店に連れていった。ブライアン行きつけの仕立屋だ。
4人は「下襟は絶対に細め、パンツもものすごく細く」することを要求し、
主任職人を閉口させた。
しぶしぶとはいえ、ジョンがステージでスーツを着てネクタイを締める、
という皮肉な事態に、叔母のミミは大喜びし、笑い飛ばした。
「ハハハ、これでみすぼらしい格好も終わりね、ジョン・レノン」。
1週間後、ブライアンはデッカの幹部に会うために、
1人でロンドンに向かった。
役員専用のダイニング・ルームに通されたブライアンを待っていたのは、
A&R部門トップのディック・ロウ、営業部長のスティーヴ・ビーチャー
=スティーヴンズ、彼のアシスタントのアーサー・ケランドという面々だった。
重役がそろっているのを見て、これは期待できそうだ、とブライアンは思った。
「ミスター・エプスタイン、率直に申し上げて、われわれはあの子たちの
サウンドを気に入りませんでした。4人組のギター・グループは、
もうはやりませんよ」
「みなさん、どうかしているんじゃないですか?
あの子たちの人気はこれから爆発的に広まります。
いずれはエルヴィスよりビッグになるはずだと、私は信じています」
そう言うとブライアンは、「ビートルズ、人気投票で1位!」という
見出しの躍る『マージー・ビート』を取り出し、幹部たちに見せた。
「この子たちは売れません、ミスター・エプスタイン。
私たちは、この手のことはよくわかっている。
リバプールでのレコード店の事業が好調なんでしょう。
そちらに専念したほうがいい」
この侮辱的な言葉と見下すような口調こそ、ロンドン特有の気取った
根性の表れだ、とブライアンは思った。
2月10日にリバプールの自分のオフィスに戻るやいなや、
トニーによるプロデュース計画を断る手紙を投函した。
手紙には、こう書かれていた。
「前回お会いした後、ビートルズは別の会社からレコーディング契約の
オファーを受けました」
これは、真っ赤なウソだった。ブライアンは、ビートルズを却下したことを
必ずデッカに後悔させてやると、心に誓っていたのだ。
「デッカの連中は、ランチ代程度の費用でビートルズと契約できたはずなんだ」
とブライアンは思った。
実際、トニー・ミーハン自身も、何年も後になってこう振り返っている。
「あらゆる意味で、完全な混乱状態だったよ。あれは、企業として
取り返しのつかない大失敗だった」
私が久保田利伸を会議に欠けた時に一斉に言われたことは
「黒人音楽は絶対に日本では売れない」「発売を認めない」
という言葉でした。
そこで私は秘策を考えて「すごいぞテープ」を自費で制作しました。
そのテープの内容は当時大ヒットしていた「ウィ・アー・ザ・ワールド」
へ出演している歌手のヒット曲を久保田の声でつなげたテープでした。
私はこれを深夜番組のDJたちに配りました。
放送では著作権の関係で流すことは出来なかったのですが、
彼らから久保田利伸の歌のうまさを拡散させたのです。
そうするとあらゆるところから会社へ問い合わせの電話が入り、
「すごいぞテープ」がほしいとリクエストが殺到したのです。
秘策はまんまと成功して社内でもテープを欲しがるスタッフが続出しました。
私は役員からテープが欲しいと言われた時には、
「何故発売しないアーティストのテープが欲しいのですか?」
「渡しません」ときっぱりと答えたのです。
その結果、次回の会議で発売の承認を獲得したのです。
そしてブライアンと同じように大ヒットさせるには、
若者受けするファッションも大切だという事で
ロンドン在住のコシノミチコへ衣装の依頼をしました。
当時、英国の有名アーティスト(スティング・ボーイジョージ)の
衣装を作っていることを知っていたのです。
結果はご存じのように久保田利伸もミチコロンドンも時代を制したのです。
女子十二楽坊の時にも同じ洗礼を受けて世界的大ヒットになりました。
「会議で反対されるほどヒットにつながる」これが持論です。