瞬時の判断
意識して判断するのと無意識で判断するのは大きな違いがある。
特に戦場では無意識に判断しなければ殺されてしまう。
上官は意識して判断するが、戦場の兵隊は無意識に行動しなければ
生きながらえない。会社においても経営者達は自己の学習と経験で
意識して判断するが、現場に出ていく社員は取引先で無意識に
商談を成立させなければならい時もある。
瞬時の判断で答えを出して功を制したケースもある。
無意識とは経験から自然に出てくる場合と本能から出てくる場合がある。
本能を鍛える訓練は経験を地道に重ねるしか無い。
プロボクサー井上尚弥は打つ瞬間に相手の行動を予測して
2、3手先まで見えるという。だから対戦相手は戸惑って打てなくなる。
過去の戦歴を意識して打つ場合と本能で備わっている無意識が働いて
打つ場合の非方向を兼ね備えているのである。
私の人間観は「無意識は広大な洞窟のようなもので、
意識はそれをスポットライトで照らすようなもの」と考えています。
さらに言えば無意識と意識の境目なんてそんなにない。
例えばスポーツの行為はあまりにも早い判断が迫られるために、
眼などから情報を得て神経を通り中枢に到達し、
脳が判断し神経を通って身体を動かしている暇がありません。
むしろ中枢を通らず自律分散的に身体が反応しているのに近いと
考えています。脳という中心があり、そこに意識があり、自我が生まれ、
その自我こそが私であり、身体は脳に扱われている、というデカルト的
世界観はスポーツの世界は成立していません。
為末大
脳の中には地図があり意識という矢印が方向を示すから
自宅に帰ることができる。
それでなければ外出先から自宅に帰ることは出来ない。
脳の凄いのはその地図を上からも見ることができる能力がある。
それはサッカーやラグビーなどのスポーツは、
目の前の見えるところばかり見ていると負けるので
常に上空から全体を見なければ勝つことができない。
脳にはまだまだ解明できていない部分が多くある。
右手は左の脳から指示が来て、左手は右の脳から指示がくる。
脳内出血で右と左の神経を離さなければならなくて
そうしたら、その患者の行動に大きな変化が現れた。
外出する際に靴下を履こうとしてもなかなか履けない。
よく見ると右手は履こうとしているが左手は脱ごうとするからである。
いわゆる、片方の手は出かけるために用意をするが、
もう片方の手は出かけたく無いので用意はしたく無いのである。
ドアも然りで開けようとする動作と、閉めようとする動作が
重なり合うのでなかなか外に出る事は出来ない。
養老孟司
近所の立ち飲み屋で飲んでいる人たちが大盛り上がりしているが
小芝居感がすごくて煩い。おじさん達は特に新橋や歌舞伎町界隈だと
騒いでベロベロまで飲んでレトロな雰囲気を楽しんでいるが、
ここも小芝居感がすごくて煩い。Xより
久しぶりに会う昔の仲間と飲み会で会うと
瞬時に昔に記憶が戻り大声ではしゃぐ親父達も多い。
人間の意識の中には場面が変わるとその場に溶け込もうとする
本能があるのかもしれない。俺は昔と変わっていないよと
虚勢を張りたいのもわからないでも無い。
私は高所恐怖症だから高いのは苦手で高層ビルさえも苦手である。
バンジージャンプやスカイ・ダイビングなど絶対無理である。
意識して飛び降りる人たちは何を考えているのかわからない。
スリルが楽しいというが、なるべくなら
このようなスリルは楽しみたく無い。
多分意識して覚悟を決めるので怖いという感情よりも
楽しみたいという感情が勝るのであのような行動ができるのだろう。
無意識の状態で背中を押されて飛び出せば、怖いという前に
心臓麻痺で死んでしまう。
水難事故で溺れて死ぬ人はほとんど水を飲んでいない。
同じ水難事故でも生き延びる人の方は大量に
水を飲んでいるということを聞いたことがある。
人間は意識するとその場面で怖い、死ぬと思ってもがくので溺れてしまう。
逆に無意識にもがくと体力を奪われるので、波任せにして息の確保だけすれば
助かると思う人の方が生存率は高くなる。
良寛さんが71才の時、三条市を中心に大地震が起こりました。
良寛さんの住んでいる地域は被害が少なく、
与板の方は被害が甚大であったそうで、
良寛さんは杜皐さんへ見舞の手紙を送っています。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」 かしこ
と、見舞の一文の中に書かれていました。
その意味は、「災難にあったら慌てず騒がず災難を受け入れなさい。
死ぬ時が来たら静かに死を受け入れなさい、
これが災難にあわない秘訣です」ということです。
聞きようによっては随分と冷たい言葉です。
しかし、これほど相手のことを思っての見舞いの言葉があるでしょうか。
「大変でしょうが、頑張ってください」とは誰でも言えます。
「頑張って」の一言も書いていないのに、受けとった杜皐さんはきっと、
「この災難の中で生き抜いていこう」と思われたに違いありません。
今の時代は自然災害もウィルス感染も戦争もいつ起こるか分かりません。
咄嗟の場合には「瞬時の判断」が生死の分かれ目になると思います。
日ごろから覚悟していれば慌てることはありません。