「温故知新」そして始まり
カブク、ハグレ、ウツケ、フヌケ、全て世間から異端の目で見られた者を
いう言葉である。
日本の芸能の歴史は異端の人間から始まってきた。
歌舞伎や能の歴史には必ず登場した「阿国と世阿弥」。
どちらとも決して恵まれた環境で華々しく登場したのではなく、
どちらかというと世間においては変わり者と疎まれていた。
伝承文化を伝統文化に変えていくのは、ある意味その時代の不良と呼ばれた
者たちが発火点を作る。それは革新的破壊である。
頭の中にある「当たり前」という時代の意識が、「あり得ない」「無理」という
認識に変わる。しかしあり得ないところに未来が創造される。
「出雲の阿国」
生没年不詳。慶長八(1603)年、京において歌舞伎踊を演じ、
歌舞伎の創始者となった女性芸能者。出雲大社の巫女みこと称していたが、
出身地は不詳。おそらくは京もしくはその周辺の出身であろう。
歌舞伎踊を創始する以前は、ややこ踊と呼ばれる芸能を演じていた。
ややこ踊の名称は、天正九(1581)年ごろから見出せるが、そのころ10歳前後
の幼女であったと思われる。時の宮廷や上級公家の邸に招かれて演じているが、
西日本各地から東海北陸地方まで巡業していた形跡がある。
天正一六年にはすでに出雲の巫女と名のって、神楽や小歌なども演じていた。
美人ではなかったとの記事もあるが、芸能に対するぬきん出た感覚の持主で
あったと思われる。歌舞伎踊での成功の前後は、京では北野神社の境内の
舞台を本拠としていた。慶長一二年には江戸城内でも興行している。
慶長一八年以降の消息はつかめない。
「能楽の世阿弥」
世阿弥は、父・観阿弥(かんあみ)の後を受けて、能を飛躍的に高め、
今日にまで続く基礎を作った天才といえるでしょう。
生涯を通してどのような能が感動を呼ぶのか探求し、手ごわいライバルが
いたにせよ、足利義満(よしみつ)・義持(よしもち)の2代の将軍の時代を
通して、一定の評価を得ることに成功します。
ライバルの芸の長所を取り入れることもうまく、特に犬王(いぬおう)の
天女舞(てんにょまい)を大和猿楽に取り込むことなどにより、物まねの
面白さが中心だった大和猿楽の能を、美しい歌と舞が中心となる
能に洗練させました。
世阿弥は能の台本を作ることをとても大切にし、世阿弥の時代に能の数は
格段に増えています。その中で、人間の心理を深く描き出すことのできる
「夢幻能(むげんのう)」という劇形式を完成させたことは、大きな業績です。
また、和歌や連歌の技法をふまえて、詩劇と呼びうるような文学的情緒に
あふれた能の台本を制作する方法も確立しました。
その昔日本の伝統文化は「河原乞食」と言われて最下層に位置付けられていた。
海外においても似たり寄ったりですが、文化は贅沢とされてそれを行う者は
逸れ者とも言われてきたのである。
モーツァルト然りでパトロンの貴族に呼ばれてパーティーで演奏していた。
リクエストに応じてその都度曲を創り出さなければならなかった。
モーツァルトの手がけた数々の曲は、当時存在していた音楽ジャンルの
ほぼすべてに渡っていました。
ピアノやヴァイオリンのソロから、室内楽、小編成のオーケストラ、大編成の
オーケストラに、オペラまで手掛けており、そのどれもが名曲であると
言われています。
モーツァルトほど数多くの曲と多様なジャンルを手掛けた作曲家は他に
例がなく、まさに奇跡の音楽家といわれているほどです。
しかし晩年のモーツァルトは、音楽家として活躍しながらも生活を満たせるだけの
収入が得られずに苦しい状況が続いたと言われています。
さらに晩年には度々病に臥せるようになり、薬も服用していました。
そして1791年、ウィーンで35年の生涯を終えます。
ファッションデザイナー、ココシャネルの言葉に「流行はその国の不良を見ればわかる」
これは言い得て妙である。パンクファッションのように服は言葉なのである。
流行とは外面だけで無く内面に狂気じみた思想が無ければならない。
ここ数年思想を映し出すほどのファッションは生まれていない。
ココシャネルは孤児院や修道院で育ちました。 18歳で修道院を出た後は、
洋品店でお針子の仕事をしながら、ラ・ロレンドというショーパブで歌うようになり、
人気を博していました。 「ココ」の愛称は、その時に歌っていた歌
「Qui qu’a vu Coco dans le Trocadero(トロカデロでココを見たのは誰?)」に
ちなんで付けられたものです。 しかし、実力ではなく客寄せとしてステージに
立たされていたことを知ったココは、歌手の道を断念します。
文化に翻弄されたモーツァルトとココシャネル。
しかし時代に大きな爪痕を残したのは確かである。
「ロックの伊丹谷」
20人も入ると一杯になる恵比寿のバーで、今年最初のライブ「うた」が行われた。
あらゆる規模の会場でパフォーマンスを繰り広げてきた伊丹谷が、あえてここを選んだ
理由がある。今の自分の意思を伝えるために、ライブハウスではなく、小さなバーで演奏
するのは「うた」本来の強いメッセージを伝えやすいからである。
今の時代、レコー会社と契約してタイアップを付けてヒット曲にして、ドーム級の
コンサートをしても、それはアーティストという存在ではなく、
商業主義のキャラクターとなり「うた」本来の持つメッセージを伝えたことにはならない。
あまりにも時代を変えるほどの「うた」の存在が無く、好きなアーティストが
歌っているからその場所へ行くアミューズメントライブになっている。
今、世の中の意識ある人を集めて魂を投げかけなければ市民レベルの革命は起こらない。
この会場で音楽ファンも画家も写真家も大学教授も能楽師もお茶の家元も参加できる
空間を作りたかった。
その日のテーマによっては、観客もライブの最中に飛び込んでもいい、
歌であったり演奏であったり、詩の朗読であり、果てはマイクに向かって激論を
飛ばしても良い。
第一回目のテーマは「仏陀」。あえてこのテーマからやり始めたのには意味がある。
仏教の世界の理念とロックの融合の可能性を試したのである。
人生の喜怒哀楽、悩みの原因、そしてそれらを抜け出すための仏陀の理念を、
映像とナレーションを組み合わせて、そこに生声で「うた」が入る。
観客が理解できるかできないかでは無く歌声でしっかりとメッセージを伝える。
初めての試みなので面白いとか好きではないとか色々意見があっても構わない。
歴史の上では世界の各地でいつもこのような市民活動は繰り広げられていた。
私が80年代のNYへ仕事で出かけた時に、音楽関係者から今一番トレンドな会員制
クラブがあるから行かないかと誘われた。名前は「タンネル」いわゆる地下鉄の
トンネルの中である。
音楽家も画家も役者も先端を言っている尖った連中のたまり場であった。
後で聞いた話ではその時アンディーウォーホルもいたらしい。
そこはまさしく歌っているやつ、踊っているやつ、話し合っている連中がいて、
新しい時代を求めている叛逆児のパワースポットであった。
音楽は人がコミュニケーションを取りやすいただの環境音楽だった。
私に言わせればバンクロックも心地よい環境音楽であり、
眠っている魂を呼び覚ますためのカンフル剤であるに変わりがない。
伊丹谷良介の決意書。
「新春うた」テーマ「ブッダ」「心を整える合理的な方法」
他人の過失を探し求め、常に怒りたける人は煩悩の汚れが増えていくでしょう。
他人の過ちを見るのではありません。他人のしたことしなかったことを
見るのでもありません。
あなたはただ自分のしたこと自分がしなかったことだけを見れば良いのです。
まず自分を正しく整え、次に他人を教えることです。
そして他人に教えるとおりに、自分でもおこなうのです。
自分をよく整えた者こそ、他人を整えることでしょう。
無益な語句を千たび語るよりも聞いて心の鎮まる有益な語句を一つ聞く方が
優れています。無益な語句よりなる詩が千あっても聞いて心の静まる詩を
一つ聞く方が優れています。
戦場において100万人に勝つよりも ただ一つの自己に克つ者こそ実に最上の
勝利者なのです。勝利すれば、恨みが起こり敗北すれば、
苦しみに悩まされます。勝敗を捨て去った者が、安らぎの境地へと
向かうのです。恥じなくてもよいことを恥じ恥ずべきことを恥じない人々は
よこしまな見解をいだいて悪い所へ赴くでしょう。
恐れなければならぬことを恐れない人々はよこしまな見解をいだいて悪い所へ
赴くでしょう。避けなければならぬことを避けなくてよいと思い避けては
ならぬことを、避けてもよいと思う人はよこしまな見解をいだいて悪い所へ
赴くでしょう。あの人も言っていた心を開いてYESって言ってごらん
全てを肯定して見ると見つかるもんだよYES YES YES
何もいらないただ歌おう僕らの愛のうた僕らの愛のうた
「仏陀」をテーマとして企画した、その為に100時間以上費やして
作った映像とナレーション。それらに絡み合っているサウンドがピッタリと合っていた。
デジタル音の合間に登場して生ギターで、生ピアノで熱唱する。
まるで伝説の革命家チェ・ゲバラのアジテートように叫び大声を上げる。
その覚醒した姿に観客は度肝を抜かれた。
ある時期、時代を制したボブディランもゲンズブールもスティングもサルトルも
彷彿とさせた。要するに文化の発信のスタイルがそれぞれ違っても、
時代を刺激させたことには変わらない。
ここから歴史が始まる。伊丹谷良介の哲学がロックに乗って響き渡る。
過去の価値観を共有して新しい時代を求めていく、まさに「温故知新」の
世界である。狂え!伊丹谷良介!今からもっと狂え!そして時代の孤児になれ!
そこに知的革命が起こるまで。