人生という丘の上で
あなたは過去から現在まで素直に生きて来たと思いますか。
人生という長い道のりを運命に逆らわず幸福を手に入れましたか。
過去を後悔せずに未来に夢を託して今日も前向きに歩いていますか。
それは東から陽がのぼり西へと沈む自然の摂理に則って行われているのです。
その中で受験、就職、結婚、誕生とゴルフコースのように決められた道順を
歩いていくだけです。最大の問題が起こったとしても、過去の人から見ると
たわいもないことばかりです。
家康は人生のことを「重い荷物を背負って坂道を登るようなものだ」
と言っていますが、その荷物の重さは分かりません。
ましてや坂道の険しさも伝わって来ません。辛いことだけが感じられます。
だから「どうする家康」に聞きたいものです。
ただ時折、誰しもが季節の変わり目に丘に登り、来た距離を確認したくなります。
春風が吹く中で、自分は頑張ったのか、頑張っていないのか、
丘の上から眺める必要があります。
偉くなくてもいい、優秀でなくてもいい、幸福でなくてもいい、
私は私の人生を大切にして生きて来たのか確認したくなります。
私の丘からは、私と離れて暮らしていた亡き母親と兄の姿が見えます。
家を出て亡くなった父親の姿も見えます。また先日、亡くなった友達の姿も見えます。
春風に乗ってタンポポの綿毛が飛んでいます。
それぞれが悲しい記憶よりも楽しい記憶が蘇るのは何故だろうか?
楽しかった記憶は記憶の棚の中で思い出しやすい引き出しに入っているのです。
いつでも取り出しやすいところに保管されているからです。
「春風や闘志いだきて丘に立つ」高浜虚子
この句の主人公は虚子自身です。若き日の虚子は小説家でしたが、
40歳頃に体調を崩したこともあり、俳句への転身を図ります。
大正2年2月21日の句会で虚子はこの句を発表しました。
胸中には俳句に立ち向かう闘志がふつふつと湧いていたに違いありません。
春風の中で湧き上がる闘志を抱いて丘の上に立っていたのです。
歌人・会津八一(あいづやいち)はかつて旧制早稲田中学で教鞭をとっていました。
郷里の新潟から上京し、八一の家に下宿して学ぶ学生のために書いたのが
「秋艸(しゅうそう)堂学規」です。秋艸とは八一の雅号です。伸び行く学生たちの
道標であり、また八一自身の「志」でもあったのだろうと思われます。
「秋艸堂学規」
ふかくこの生を愛すべし、
かへりみて己を知るべし、
学芸を以て性を養ふべし、
日々新面目あるべし。
「ふかくこの生を愛すべし」
第一に、この世に生を享(う)け、今こうして生きている自分を深く愛すべきだと
教えています。自分を深く愛すことができれば、苦境に陥ることがあったとしても、
尽きることのない闘志がみなぎってくるものだと考えます。
「かへりみて己を知るべし」
禅は己を知ることを大事にします。
自分のことを知っているようで実はわかっていないというのが私たちです。
自分とは何者であるかを掘り下げるほどに、自分の浅はかさがわかります。
と同時に底知れぬ深さも見えてこなければなりません。
「学芸を以て性を養うべし」
学問をするのは、知識を身に付けるためだけではありません。
性を養う、人間性を陶冶し、人格を錬磨していくことも大切です。
それはビジネスでも家事でも同じでしょう。
何事においても人間性を養うことを大いなる志にしたいものです。
「日々新面目あるべし」
毎日毎日新しくなるということです。
昨日より今日、今日より明日へと常にアップデートしていくのが新面目であり、
また禅の真面目(しんめんもく)への道です。
そして新しい旅立ちの時に禅語ではこのような言葉があります。
「葉葉起清風」(ようようせいふうをおこす)
さわやかな旅立ちの時、実にさわやかな雰囲気の言葉です。
この言葉が使われた文脈や禅語独特の語用を理解すると、味わいが増します。
南宋時代の傑僧、虚堂智愚(きどうちく)の語録をまとめた『虚堂録』の一節です。
著名な臨済禅の僧侶で、日本でも一休さんこと一休宗純が私淑していたことが
知られています。
『虚堂録』巻七
誰知三隱寂寥中
因話尋盟別鷲峯
相送當門有脩竹
爲君葉葉起清風
誰か知る三陰寂寥(さんいんせきりょう)の中
話に因(よ)りて盟を尋(つ)いで
鷲峯(しゅうほう)に別れんとするを
相(あい)送りて門に当たれば修竹有り
君(きみ)が為に葉葉(ようよう)清風を起こす
意味
石帆惟衍・石林行鞏・横川如珙の三人が国清寺に出立するときの話です。
三隠(寒山、拾得、豊干)の遺蹟を訪れるにあたって
師匠である虚堂禅師の住む鷲峯庵に別れの挨拶にやって来た。
門まで見送ると、門前に竹林があった
竹の葉は彼らに途切れることなく清風を起していた
禅語はとても短いですが、深い文脈が込められています。
清風はたびたび登場するキーワードの1つで、ある禅の価値観を表しています。
葉葉は同じ言葉を繰り返す畳語(じょうご)で、日日是好日、歩歩是道場と
いうように禅語でも時々用いられます。
「自分はまだまだである」、もっと日々精進をして志を高く掲げたいものです。
春風は新しい何かが始まることを予感させます。
この春、人生という丘の上で大いなる志をいだき、
今より素晴らしい自分に出会ってみたいと思いませんか。
初春を迎えて新しい旅立ちを心からお祝い致します。
「君(きみ)が為に葉葉(ようよう)清風を起こす」