幸福の持ち方

 

幸福とは地位や名誉や財産だけで語ることは出来ない。

宗教家の幸福、哲学者の幸福、政治家の幸福、成功者の幸福、男女の幸福、
年齢別による幸福等それぞれが提案する幸福がある。

しかし自分自身の運命を知り、生きる目的や価値が分かった時に、初めて真の幸福を実感できるのだ。

地位や名誉や財産以外に、人生の夢を幸福に置き換える人達や、健康であることを幸福と捉える人達もいる。
弱い者同士で助けう共存を本当の幸福と思う人もいる。

人間が人間らしく幸福感を持ちながら成長できたのは、
他人を守る意識が芽生えたことからだそうだ。

暗い穴倉の生活も火を発見したのも道具を作ったのも、
家族を含む他の人達が笑顔を見せる事に幸福を感じたからである。
最も原始的な幸福は、その日の食料を分け合うところから始まったのかもしれない。

自分一人だけの満足なら限界がある。
住むところも衣服も食料も囲い込むならば動物とまったく同じ状態である。

力のあるものが弱い者の為に生きる喜びを感じた時から双方に幸福感が生まれたのである。

その為に人としての規律が宗教からうまれ、人としての生き方に哲学がうまれ、
人として安全に暮らす為に政治がうまれたのである。

ダン・ギルバート曰く、
「不幸が生じるのは、自分の人生において自分が迷い、自分が決めている時に起こりやすい。
一方、それが辛い出来事や苦しい出来事だとしても、自分以外が運命を決め、自分の決定から離れている場合、
我々は結局のところ幸福を感じてしまうようなのだ。」

ダン・ギルバートは、不幸は自分の決定によって引き起こされた現象であり、
幸福は他人に決定を委ねる所に感じるものであると言っている。

友人同士の悩みの共有は相手が解決の判断をすれば幸福を感じ、
自分が解決の判断をすれば不幸を感じるというのだろうか。私には理解できない。

ラ・ロシュフコオは「どんな不幸な出来ごとでも、有能な人ならば、そこから何か利するところがあるし、
またどんな幸福な出来ごとでも、思慮のない人ならば、災いを転じて禍となすことがあるものだ」と言っている。

第一級の貴重な箴言である。

魯迅の「阿Q正伝」の中で、「阿Qは独自の精神勝利法という考えを持っていた。
「お前らのような下等な人間から幾ら叩かれても痛くも痒くもない。俺はお前らよりも高等な人間なのだ」
阿Qは最下層の生まれで教養もなく、容姿も最悪で、村人から常に虐められていた。
しかし、殴られている最中にでも、阿Qは腹の底では勝利者として笑っていたのである。」
他人から受ける屈辱を逆に幸福として捉えたのである。

中国の歴史は常に列強大国から虐められていた。
その弱く貧しい中国が苦しい時代を乗り切った精神として高く評価された作品である。

しかし魯迅は中国の愚民の姿を阿Qに描いたのであって、
中国人の内面に潜む情けなさを曝け出しただけであると言っている。

いじめや体罰で苦しんでいる子供達が、このような強かな考え方を持てば、
加害者は不気味で手を出せなくなる。加害者は逃げるから喜ぶのである。

歎異抄には「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもっと、そらごと、たはごと、
まことあることなきに念仏のみぞまことにおはします。」仏教は絶望ということを知らない。

「火宅」私を含めて人間がどれ程堕落していてもかまわない。社会がどれ程混乱していようとも少しもかまわない。
なぜか。それは人間の世界は混乱しても、それを包む大きな世界の働きかけは無限でありやむことがない。
あらゆる煩悩の中で生きている私達、まるで燃えさかる家の中にいるようである。

激しく移ろいやすいこの世界は、全てが嘘・偽りで絵空事である。
そこには南無弥陀仏だけが真実なのである。仏教は救いでは無い。

真実を知って学んだ者だけが幸福を得られるのである。

世の中には声にも出せない不幸な人達が大勢いる。
老人ホームのお年寄り達、都会の片隅で孤独死をする人達、ガード下のホームレス達、延命処置をされた病人達、
人種間の差別を受ける人達、未だ戦火が衰えない国の人達、飢餓でなくなるアフリカの子供達。
数限りない不幸が目の前には広がっている。

現代社会における典型的な苦しみは、
「俗物主義がつくりだす無責任な嘲笑に振り回されて、
不幸を感じその不幸の結果を全て自分の責任にしてしまうこと」である。

逃げ場を失った人達が行きつく先に辿りついた結果が自己反省など納得はできない。

幸福は分けあうところから始まっているのです。
笑顔を見るところから始まっているのです。

人工的な幸福を振りまく資本主義社会に踊らされては、本当の幸福を手に入れる事は出来ないのである。