自然の中に
「自然の中にいると人を感じる」この言葉は山伏修行者星野文紘の言葉です。
私は壁のように剃りたつ険しい山も見ると登るぞと気合が入るが、後ろにいる
後輩山伏は、これは無理でしょうと答える。無理という思考が働くために
やる前から諦める。この時点で人から人間の違いが出る。
もっと気ままにしたい事を素直に信じて行えば良いのに躊躇するのは人間だ。
私は「自然、祈り、命、魂」の四つを大切にしている。
人は無意識、人間は意識を大切にするがもっと自然に従えば良いのだ。
人間は考え過ぎなのだ!もっと解放されるべきである。
考えるな!そのままで良いのだ。自閉症の人にもそのままでいいのだという。
殺人を犯した人にもそのままでいいのだという。人を殺したお前はそのままでいいのだ。
自分で選んで望んだからそのままで良いのだ。何も解放されるものは無い。
わが師哲学者行徳哲男(91歳)は吠えた。
野生のカモ、広島原爆、キルケゴール、斎藤茂吉に当てた芥川龍之介の最後の言葉
「末期の目」、呵々大笑、富士登山など終わりなく吠え続けた。
死は縁起が悪いとか汚いとかいうけれどそんなものじゃない。
お悔やみは言わない、葬儀の際にも位牌にむがってお前と語りかける。
身体は死んだが魂は存在する。そこに話しかけるのだ。
死については日常世界から非日常の世界へと移るだけ。
生成AIの中にはデーターがあるが喜怒哀楽は無い。最終的に勝つのは人の心である。
そのためにも自然があり祈りが、命が、魂があるのだ。
これからの時代は頭で考えるのではなく感性で感じる世界が正しい。
今世の中にある問題は善悪、正邪、損得の二元でを決めたりするが、
人ならば目の前の死にゆく姿を許せるわけはないはずだ。
毎日戦争で亡くなる人がいるのに理屈で考えるから身動きがとれない。
累々と横たわる屍を他の国の出来事と達観する。
自然(じねん)の会2023/12/10
行徳哲男、星野文紘、不二山那珂の3人の怒涛の激白
芥川龍之介「末期の目」「ただぼんやりした不安」という有名な一節も記されている。
この遺書のなかで、個人的に興味を惹かれる言葉が、「末期の目」である。
氷のように透み渡った病的な神経の世界で、今にも自殺に向かおうとするとき
だからこそ、いっそう自然は美しく見える。
それは、世界が「末期の目」に映るからだ、と芥川は説明する。
死を近いものとして感じたことのある人間なら、もしかしたらこの言葉の
意味することは、感覚的に理解できるのではないだろうか。
そして、「末期の目」に映る世界の美しさを表現することができるとすれば、
それこそが芸術家と言えるのではないか、と思う。
作家の川端康成は、「末期の眼」という昭和8年に書かれた随筆のなかで、
この芥川の言葉について論じ、「あらゆる芸術の極意は、この〈末期の眼〉であろう」
と書いている。その「目」で世界を見ること自体は、あるいは「容易なこと」かも
しれない。しかし、末期の目で世界を眺めながら、自殺しないこと。
その世界で見る美しさを、寸分の狂いもなく、この手にすくい取ること。
画家にせよ、詩人にせよ、これが芸術家として存在し続けることの難しさでもある。
ちなみに、芥川龍之介に傾倒していた堀辰雄の小説『風立ちぬ』では、
死の病に冒されていた節子の台詞として、「あなたはいつか自然なんぞが本当に
美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけと仰ったことがあるでしょう」
という言葉も登場する。
出典 : 芥川龍之介『或旧友へ送る手記』
人生に悩んでいる人へ。キルケゴールの名言
「人生は後ろ向きにしか…」
「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない」
Soren Kierkegaard(セーレン・キルケゴール)
英語には “Everything happens for a reason.” というフレーズがあります。
これは「世の中のあらゆる出来事は理由があって起こる」という意味で、
たとえそれが悪い出来事であってもそれは自分の成長に必要であるから起こるのだ
という、そうした考えを背景にした言葉なのですが、ただ、その出来事が将来の
自分にどのような影響を与えるかは後から分かることです。
例えば、誰かと出会って、その人が自分の運命の人だと思って、ただ、本当に
その人と一生一緒にいるかは分からないですよね。
後から振り返ると、その人との出会いは自分に失恋のつらさを教えるための
ものだったということになるかもしれません。
また、中国の古代思想家孔子はこのような言葉を残している。
「人生における最大の栄光は、決して転ばないことにあるのではない。
何度転んでも起き上がることにあるのだ」
「野鴨の精神」
2011年にWeb上にアップされた「IBM創立100周年記念サイト」には、
「Wild Ducks(野鴨たち)」という映像が紹介されています。
「野鴨の精神」はIBMの底流に流れるものであり、1959年当時IBM会長だった
トーマス・ワトソンJr.は、「ビジネスには野鴨が必要なのです。
そしてIBMでは、その野鴨を飼いならそうとは決してしません」と言った
というのです。1960年代から1980年代にかけてコンピュータの世界に君臨した
トップ企業を支えた「野鴨の精神」とは、どういうものなのでしょうか。
「野鴨の話」と実存哲学
この話は、コペンハーゲン生まれの哲学者、セーレン・キェルケゴール(1813-1855)
が残したものです。7人兄弟の末子として、家政婦から後妻になった母と、
裕福な商人の父の間で育った彼は、若い頃から憂鬱な傾向がある一方、物事を深く
見据え、容易には承知しない実存哲学者の先駆けとして、『死に至る病』などの
著書を残しました。
なぜ、「野鴨の話」が実存哲学とつながるのでしょうか。それは彼の死後、
ドイツの哲学者ハイデッガーが、この話を「被投的投企の哲学」と呼んだからです。
人間は誰しも生まれる場所も時間も選べない。ハイデッガーの言う「投げ込まれた
(被投)」状態ですが、その限られた状態の中で、これからどういう在り方を
すべきかは、自分の責任で瞬間ごとに決めていけます(被投的投企)。
哲学用語にすると難しくなりますが、「野鴨」に託されているのは、
そのことだというのです。
それに比べると、冒頭のIBM会長の解釈である「飼い慣らされてはいけない。
飼い慣らしてはいけない」は、いかにも明快に聞こえます。
実は「投企」は英語ではプロジェクト(project)ですから、まだ誰も行ったことのない
ビジネス上の冒険を進めていくことは、「被投的投企」の連続状態とも呼べるわけです。
私は自然(じねん)の会に参加して。
行徳哲男、星野文紘、不二山那珂の3人の怒涛の激白を聞き震えました。
魂がその言葉を求めていたからです。
良き教え良き言葉を聞くことは人の目覚めに役立ちます。