言霊の掴み方
あなたは空中の何もないものを掴むことができますか?
頭で掴もうとするとつかめません。しかし意識で掴めば簡単につかめます。
論理的に無理だと決めつけるあなたは、言葉をつかんだことがないからです。
それは身体の耳でしか言葉を聞いていないから分からないのです。
言葉には言霊の波長がありそれを心の耳で感じて掴むのです。
すると言葉は空気のようなものと思っていたのが重量を感じるのです。
「愛してる」「寂しい」から出る波長を感じるのです。心が反応してあなたの
気持ちを伝えることができるのです。相手にではなくあなたの心にです。
あなたの感受性を大切に育てていると、その言葉一つに心が揺れ動くのです。
「ありがとう」は一瞬の言葉ですが心に響くのは何故でしょうか?
それは意識の中で平和に対するキーワードだから安心するのです。
あなたと私の間に敵意は何もありませんというコミュニケーションの扉だからです。
どんな言葉でも、いったん口に出すと、その言葉が自分に様々な影響を与えます。
昔の人は、言葉には呪力があるとし、「言霊(ことだま)」と言ってきました。
発せられた言葉によって、幸福にも不幸にもなり得るからです。
「そらみつ 倭国(やまとのくに)は 皇神(すめかみ)の厳しき国 言霊(ことだま)の
幸(さき)はふ国と語り継ぎ 言い継がひけり」と万葉集にあるように、
日本は、言葉の呪力によって幸福がもたらされる国でした。
仏教では、人間の行動を「業(ごう)」という語で括り、業には身・口・意の三種が
あるとしています。私たちは身(=体)を動かすことによって何かをしていますが、
意(=心)すなわち精神活動が、身体にそのような動きをさせているのです。
一般の動物は言語を持ちませんから、身と意だけでしょうが、人間には言語があります
から、口から出る語つまり言葉が重要な部分を担うことになります。
人間が心に何かを思ったとき、それが言葉になり、行動を起こさせます。例えば、
「有り難い」と思えば「ありがとう」という言葉が出、頭を下げるという動作を引き
起こすように、身・口・意の三種の業が深く関わりあって、一連の行為となっているの
です。人間にとって、言葉は相手に意思を伝えるばかりでなく、「人となり」を伝える
ものでもあります。「言霊」によって幸福を招きたいと願ってやみませんが、
くれぐれも「口ばかり」にならないように、気をつけたいものです。
高野山真言宗管長の松長有慶師は、『密教』(岩波新書)において空海が次のような
主旨のことを述べていると仰っています。
「現象世界で発せられ声も、宇宙のエネルギーである本源的な声のあらわれであり、
名もその本源的な声とつながる。だから名も単なる符丁ではなく、名を呼ぶことは
実在を動かすことになる」と。
また、柿本人麻呂の有名な歌に、
「しきしまの 大和の国は 言霊の さきはふ国ぞ まさきくありこそ」
(この日本という国は、言霊が助けてくれる国である。幸多かれ)とあるように、
言葉には霊力があると万葉の昔から信じられてきました。
美しい言葉、力強い言葉、祝福・賛嘆の言葉で、まわりの人や自然や物に呼びかけ、
いや栄えの幸多き人生を招来しましょう。
私が思うところの日本の伝統文化には所作と同時に言葉を操る技法を受け継いで
いるような気がしています。多くのことを語ることなく所作と同時に短い言葉の中に
まさしく「言霊」が宿っており、客人の心の中で共感と感動を呼び覚ますのです。
お能は鎮魂歌です。天下泰平と安寧を祈る祈祷が中心軸にあります。
村人たちの苦しみも悲しみも凶作も取り除く儀式から始まっています。
散学も猿楽も田楽も曲舞も様々ありますがそれを統一したのが観阿弥と世阿弥親子です。
世阿弥はお能をその根本において完成させるために、みせものから芸術に一躍させる
ために、あらゆる手段をいといませんでした。ある場合は自己の内にある芸術家を
おさえつけてまでも、芸を生かすことをあえていたしました。自己を殺してまで芸を
生かす、その精神はどこまでもお能をつらぬいています。世阿弥の作り出したお能の
発生は今から700年前の室町時代から始まっています。世阿弥は、お能の源を
あめのうずめの命(みこと)にまで遡らせました。ここに祈りの原点があるのです。
私の座右の銘「愛語よく回転の力あり」道元
良き言葉にも言霊の力が宿っていなければ意味がありません。
私も他人の人生を変えるぐらいの言葉を、魂の気迫を持って伝えていきたいと思います。
いつでも良き言葉を求めている人がいれば、どこへでも出向き伝えていきたいのです。
良き言葉を求める人に大切なことは受け取る力です。
言葉を受け取る力とは受け取る準備が整っている人です。
どのような言葉も前触れなしに突然言われても感じることはありません。
その時のおかれた心境で臨む言葉であれば心が敏感に反応するのです。
例えば、私が人生最悪の経験をしたときに言われた言葉があります。
会社も家族も財産も失い、哲学の師と仰ぐ方の元へ助言を求めに行きました。
先生私は人生のどん底へ落ちてしまいました。どうすれば良いでしょうか?
その時の先生の言葉が「どん底へ落ちたか良かったな」です。
私は耳を疑いもう一度聞き直しました。「これが良かったのですか」
そうです「どん底に落ちて底に着いたな」「落ちて着いたから落ち着いた人間になるのだ」
「落ち着いた人間になったのだ」と言われたときに、それまでの苦労と将来に対する不安が
一瞬にして無くなりました。
言霊の持つ力の凄さを身をもって体験したのです。
空中に飛び交う数々の言葉を聞き逃すのではなく、心の耳で聞き直せばあなたにも
言霊の波長が伝わります。試してみてください。
あなたは空中の何もないものを掴むことができますか?
頭で掴もうとするとつかめません。しかし意識で掴めば簡単につかめます。
論理的に無理だと決めつけるあなたは、言葉をつかんだことがないからです。
それは身体の耳でしか言葉を聞いていないから分からないのです。
言葉には言霊の波長があり、それを心の耳で感じて掴むのです。