芸道
11月10日渋谷能楽堂の伊丹谷良介生誕50周年記念ライブ「うた」
11月23日新橋の醸造所での中村橋吾の一人歌舞伎「平家女護島俊寛」
11月26日大津市東員での地元町民によるミュージカル「LIFE is DERBY」
ロック歌手がマイク無しで能楽師と能舞台に立つ。
一人の歌舞伎役者が「俊寛」の解説と六役の人物を演じる。
町民が歌、パフォーマンス、ダンス、演技、舞台フォーメーションを発表する。
全てに高いハードルがある。強い熱意がなければ継続出来ないことである。
そして熱意だけでは無くそれまでの切磋琢磨した修練も必要である。
その上で観客の皆様の喜ぶ顔もこれからの芸道の励みにするのです。
伝統格式保護の為に能楽協会の許可がなくては能楽堂も能楽師も使うことは出来ない。
いくら歌舞伎の研修生でも中村屋の許可と伝統歌舞伎保存会の許可が無くては出来ない。
町民アクターは本職をこなして空いている時間で練習をする根気が無くては出来ない。
私が言う「芸道」とはエンタテインメントが基本です。
幾ら素晴らしい舞台やステージを用意しても、そこで芸を披露する人たちの卓越した
技術力が発揮されなければ意味をなさない。
常日頃から何度も言うように「練習は自分のために本番はお客様のために」である。
修行の厳しさがあっても、練習の苦労があっても、段取りのダメ出しがあっても
微塵にも顔に出したり、動作に出てはならないのである。
観客は日ごろの生活を離れて演目の世界へのめり込みたいのです。
そこで演技者自身の苦労の匂いがしてしまうと素人の芸どまりなのです。
プロの凄さはどのような状況でもお客様には安心感を与えられる人です。
芸道といえば能楽が頭に浮かぶ。そして「風姿花伝」である。
「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり」である。
ここで内容の一部を紹介します。
その風体は年齢によって気分や気色を変える。少年ならばすぐに「時分の花」が咲く
ものの、これは「真の花」ではない。能のエクササイズには「初心の花」というものが
あり、この原型の体験ともいうべきが最後まで動く。それを稽古(古えを稽えること)
によって確認していくことが、『花伝書』の「伝」になる。
幼年期(7歳頃)
「能では、7歳ごろから稽古を始める。この年頃の稽古は、自然にやることの中に
風情があるので、稽古でも自然に出てくるものを尊重して、子どもの心の赴むくままに
させたほうが良い。良い、悪いとか、厳しく怒ったりすると、やる気をなくしてしまう。」
世阿弥は、親は子どもの自発的な動きに方向性だけを与え、導くのが良いという
考え方を示しています。親があまりにも子どもを縛ると、親のコピーを作るだけで、
親を超えていく子どもにはなれない、という世阿弥のことばには含蓄があります。
少年前期(12〜13歳より)
12〜13歳の少年は、稚児の姿といい、声といい、それだけで幽玄を体現して美しい、
と、この年代の少年には、最大級の賛辞を贈っています。しかし、それはその時だけの「時分の花」であり、 本当の花ではない。だから、どんなにその時が良いからといって、生涯のことがそこで決まるわけではない、 と警告もしています。
少年期の華やかな美しさに惑わされることなく、しっかり稽古することが肝心なのです。
「風姿花伝」より
「風姿花伝」は能の仕草を芸能芸術として扱った。こんな芸術論は世界でもきわめて
めずらしい。ヨーロッパ人なら詩学とか詩法と名付けるだろうが、それなら言葉の
ための芸術論である。世阿弥の『花伝書』(風姿花伝)は所作や様態の芸術芸能論で、
しかも600年前だ。ブルネッレスキがやっと古代ローマのウィトルーウィウスを
発見し、ファン・アイク兄弟が出てきたばかり、アルベルティの『絵画論』ですら
『花伝書』の35年あとになる。文芸論や建築論や絵画論ならまだしも、
『花伝書』は人の動きと心の動きをしるした芸能論である。証拠がのこらない
パフォーマンスの指南書であって、それなのにそこには楽譜のようなノーテーションや
コレオグラフはひとつも入っていない。ただひたすら言葉を尽くして身体芸能の真髄と
教えをのべた。ただの芸能論ではない。観阿弥が到達した至芸の境地から人間と芸術の
関係をのべている。人間の「格」や「位」の学習論にもなっている。
松岡正剛の千夜千冊より
芸道を磨くとは人間を磨くことと同じなのである。
芸を磨く環境が整わなくても数倍努力をすればよいのである。
伊丹谷良介も中村橋吾も東員の方々もそれぞれが芸道を究めようとして
日々切磋琢磨を繰り返しているのである。
まだ完全に完成したとはプロデューサーの立場からは言えないが、そこに含まれる
情熱と探求心あくなき芸道の追求がこれからのエンタテイメントには必要なのです。
見る者を感動の渦に引き込むのである。私の血が騒ぐのはこのような上昇志向を持っている人たちの役に立ちたいと思うからです。
それが私の天命ですから喜んで応援したいのです。
どのように時代が移り変わろうと、どのようなジャンルであっても、挑戦なきところに
成功も感動も生まれないのである。
伊丹谷良介は新しい時代のロックの進化系に挑戦をしてほしい。
中村橋吾はスーパー歌舞伎を飛び越えるフュージョン歌舞伎に挑戦してほしい。
東員市民ミュージカルの皆様にはプロがやらない題材に挑戦してほしい。
ローマの末期も江戸の末期も文化百花繚乱の波が立つたのです。
あらゆる文化が円熟して頂点を極めたのです。
今時代の変わり目に後世に続く精神文化を花開かせる時です。
エンタテインメントは「祭り」です。