怒りの起源
「怒らない人」
怒らない人=優しい人ではなく、
怒らない人=他人に期待してない人、
他人に期待していないから失望もなく怒りも発生しない。
多くの人は失望が期待から生まれることを知っている。
他人は信用できないので期待すれば高確率で失望することを知っている。
無意味な期待をやめればメンタルが安定する。
私はいつのころからか怒らない人になった。
それまではプロデューサーの役割として些細なことで怒っていた。
仕事が遅くてルーズなスタッフに、その上に平気で嘘をつくマネージャーに、
努力もなく夢見ているだけのタレントたちに、いつも怒り続けて来た。
そして何故怒るのかを調べてみた。
「怒りの起源」
怒りが起こるは明確な発生原因があります。それは無常ということです。
仏陀のもっとも根本的な発見が無常です。
そしてその無常こそが怒りの原因なのです。
日本人は情緒的、感傷的にとらえているのですが、無常の本当の定義は
「ものごとは瞬間、瞬間で変化し、生滅していく」ということです。
自分も世界も、決して一瞬たりとも同じではありません。
無常とは一切のものごとの真理です。
私であろうが、他人であろうが、環境であろうが、世界であろうが、
宇宙であろうが、すべて無常です。
つまり、変わり続けているのです。
そしてこの「変わり続けている」ということが、怒りを生む原因なのです。
一切のものごとは無常であり、「無常が怒りの起源だ」とすると、
一切が怒りに通じているように聞こえるかもしれません。しかしその通りなのです。
はっきり言ってしまえば、実は生命は基本的には怒りの衝動で生きています。
怒りの衝動で生きるということは、悪いとか良いとか言えることではなく、
我々の生命はそういう構成になっているのです。
アルボムッレ・スマナサーラ「怒らないこと」
この世に安定しているものは何もなく常に変化を続ける無常の世界があるのです。
人は守るものがあると(家庭、子供、仕事、友達関係)、それを手放したくないので、怒りが発生をする。
現状の状態を維持したくなるので、少しの変化にも怒りが生じる。自分の期待と相手の行動が違うと怒りが頂点に達して爆発するのです。
「怒り」の反対は「悦び」ではなく「希望」です。
しかし、現実には希望どおりにはいかないことばかりです。
今日一日は笑顔で楽しく過ごそうと思っても、同僚や上司からいきなり注意されると、途端に不機嫌になり笑顔は消えてしまいます。それが無常なのです。
悦びを望んでも人生は一生「苦」から逃れることは出来ません。
人間は怒りを避けるのではなく、怒りをコントロールすることで精いっぱいなのです。
「親切な人」
親切な人=思いやりがある人ではなく、
親切な人=面倒を避けたい人、
他人に反論をしないで合わしていれば波風は起こらないから妥協するのです。
自分の本音を言わずに相手に同調している方が問題も起きなくて過ごせると思っている。
日本人に一番多いタイプがこれである。
子供の時から「他人とは仲良くやりなさい」と教えられるので、
互いに摩擦をおこしたくないから自然と同調主義になってしまう。
日本人は根本的に性善説を信じているから悪い人はいないという発想である。
島国の中で家族の系図をたどれば、何らかの関係がみんなとつながるので、
簡単に悪いことは出来ないという考えが今も残るのです。
親が子供達を叱るのは期待した通りの人生を歩かそうとするからである。
そして何故子供には反抗期があるのかは独り立ちを認めてほしいからです。
好きにやらせれば良いのである。ただ人としての道を外している場合は別問題である。
強く怒るのではなく過ちを正して叱らなければなりません。
親は子供に無意味に優しい人になる必要はありません。
怒らないことと親切な人との違いは解決の道を「錯覚」しているだけです。
怒らない人は1人で対応して相手を「無視」する場合が多いのと、
親切な人は良かれと思って噂を周りに「伝達」してしまうことです。
時間の流れの中であるがままの姿で過ごしましょう。
ときには怒ってもよいのです。
それが人間です。