教えに三あり

教えには三つの段階がある。

第一の心教は別段の方法手段をとらず師によって自然に教化することである。
第二の躬教は師の行為の跡を真似させる教えである。
第三の言教は師が言葉で説き諭して導く教えで、言葉を方法としている。
「言志四録」佐藤一斉著/川上正光全訳注

山本五十六元帥の言葉にも、
「やって見せ、言って聞かせて、させて見て、ほめてやらねば、人は動かじ」というのがあります。

師が行動を見せて自然に教化する。その後言葉を通じて導き真似をさせる。
最後に良き個所を見つけて褒めてやり自信を付けさせる。

リーダーたるべき人が必ず教化の方法として行わなければならない原則である。

奈良県、法隆寺金堂、法輪寺三十塔、薬師寺金堂などを手掛けた
最後の宮大工西岡常一は「徒弟制と教育」のなかで、
弟子の教育についてこのように言っている。

棟梁が弟子を育てるときにすることは、一緒に飯を食って一緒に生活をし、
見本を示すだけです。

道具を見てやり、砥ぎ方を教え、こないやるんやいうようなことは一切しませんのや。
「こないふうに削れるように研いでみなさい」とやってみせるだけですな。
弟子になるようなものには大工になろうという気持ちがありますのや。

ただその上に何か教えてもらおうという衣みたいなもので覆われていますが、
それが邪魔ですな。まず、生活しているうちに自分でこの衣を解かないけません。
これは私が解いてやるなやなくて、弟子が自分で解くんです。

また自分で解く心構えがないと、ものは伝わりませんな。

ですから弟子に来たからというて手取り足取りして教えることはありませんのや。
見本を見せた後はその人の能力です。いかにどんなにしたところで、
その人の能力以上のことはできまへんからな。

親方の背中を見て学ぶことを「暗黙知」と言います。

ハンガリー出身のマイケルポランニーも「暗黙知の次元」でこのように言っています。

観察者は、外部から行為者の諸動作の中へ内在化しようとして、
その諸動作を相互に関連づけようと努めることになる。
観察者は、行為者の動作を内面化することによって、その動作の中へ内在化するのだ。

こうした探索的な内在化を繰り返しながら、弟子は師匠の技術の感触を我がものとし、
その良きライバルとなるべく腕を磨いて行くのである。

始めから言葉で教えると頭では理解できても身体がついていかない。
動作を見せる事で観察力を高めさせて想像させることが重要である。
その後一定の水準に達した時に初めて理屈・理論を教える。

教育とは一方的に学問を教える事では無く、
その教育によって何が出来るかを教えるべきである。

しかし、そこに生徒たちの個性があることも忘れてはならない。

「夫(そ)れ学は通の為に非ざるなり。窮して苦しまず。
憂へて意(こころ)衰えざるが為なり。禍福終始を知って惑はざるが為なり。」「荀子」

我々は物知りになるために学ぶのではない。窮地に陥っても苦しむことがなく、
不安におののいて意気消沈しないためである。こうすればああなると、
禍福の始まりや行く末を知って、心が迷わないためである。

「安岡正篤人生を変える言葉・古典の活学」神渡良平より

教える方も学ぶ方も心して記憶にとどめたい珠玉の言葉たちである。