遠慮と謙遜と謙虚

 

「遠慮」は書いて字の如し遠い先々まで思慮することである。

それが人に対して言語・行動を控えめにするという意味で伝わっている。
挙句の果てには相手に気を使い先を譲る事が遠慮と成ってしまった。

本来の意味は思慮深く考えた上で行動を起こす事である。

「謙遜」は控えめな態度で振る舞う事。そしてへりくだる事と辞書には書いてある。

我々が使う謙遜は自分の地位や実績を誇示せずに控えめに振る舞うことである。
しかしビジネスの上での謙遜は逆に警戒心を植え付けることにもなりかねない。

初対面では必ず経歴と実績と能力は明示すべきである。
その上で互いの条件を要求するのが交渉である。

表向きでは謙遜を交渉の道具として使い信頼を得ようとする事が多い。
へりくだる事が交渉を優位に立てると錯覚しているのである。

「謙虚」も控えめで素直なこと書いてある。

本来は互いが主張を繰り返し議論した結果行動に移す事である。
消極的に避けるのではなく、学び方が上手く、恐れ入りながら、前の席に座ろうとする意識の事である。

謙虚は下がるのではなく前に進むことと詫びながら行動する事である。

日本人は他人との摩擦を避ける為に、「言わない・言い切らない・言い負かさない」で、
本音を隠して建前だけで過ごして来た。

同調の精神イコール場の空気を読むことに帰結する。

日本人の美徳とされて来た、共存・共栄・互助・思いやり・やさしさも、
他人とぶつかるのを避ける為に生れて来た処世術である。

そこに言葉と共に独特の所作が加わるので見た目にも美しいとされて来た。

他の国と比べれば一般庶民の隅々にまでに礼儀作法が浸透している国は珍しいのである。

八百万の神々に守られている我々は性善説を重んじる。
生まれた時に悪人は存在しないのだから根本は信じ合えると思っている。

しかし世界企業と渡り合うグローバル化の現代では日本人の曖昧な慣習は理解が得られない。

幾ら英語を流暢に使いこなしても日本人の礼儀作法の意識で使えば誤解を与える。
遠慮と謙遜と謙虚は性善説から出た遺物である。
決して伝家の宝刀には成らないのである。一方的な思いやりは気をつけた方が良い。

江戸幕府末期の開国以来、海外から大勢の外国人が来た。
彼等は東洋の未開の国に来たと思ったら、人は礼儀正しいし、町は整備されているし、
店先に並ぶ美術工芸品の素晴しさに驚いたのである。

そして彼等がした事は、自国に都合の良い貿易条約を作り、
日本の貴重な工芸品や絵画などをゴミの様な値段で買い漁って行ったのである。

我々の祖先は遠慮と謙遜と謙虚を逆手に取られて散々やりたい放題をされたのである。

許されがたい歴史の事実である。

ここに英国の貴族が学ぶノーブレッスオブリージェがある。

特権を持つ人間は特権を持たない人間に奉仕をしなさいということである。
貴族は庶民を守る義務があるのである。金持ちは貧しい人達を救う義務である。

しかし、本当は貴族たちの特権と贅沢を守る為の詭弁の教えであった。
都合の良い法律を作り高い税金で庶民を身動きできない様に領地に縛り付けたのである。

日本人が英国男性を紳士の鑑として来たのは、彼等の都合の良い嘘に気付かずに、
ノーブレッスオブリージェをジェントルマンシップと勘違いしたからかもしれない。

元々ジェントルマンシップは、レディーファーストと戦う意思が無い事を表明する事である。
民族が違い、宗教が違い、価値感の違う国が、外交上取りきめた接見のルールは、
相手を疑う事から始まったのである。

しかし、ある意味では我々も英国風なジェントルマンシップを学ばなければならない。
戦後、日本はいち早く近代国家を作り経済大国になったからである。
近隣諸国との外交には、笑顔の下にナイフを隠すような強かさが無ければ、バランスがとれ無いのである。

その上にノーブレッスオブリージェで言われる所の与えられた特権を使い、
発展途上国を常に援助する事が日本の役割なのかもしれない。

日本人は、いつまでも遠慮と謙遜と謙虚を守るべきではなく、
時代に合わせた礼儀作法を作らなければならないのかも知れない。

インサイドの表現ではなくアウトサイドの強い主張が必要な時である。