私は一体何をしようとしてるのか?




恩を学び、恩を返していく。誰しもが人生の中で恩を受けて生きている。
恩返しや恩送りはもちろんのこと恩情、恩恵、恩寵、恩徳などを忘れない
ためにも「恩」を繰り返し伝えていきたい。

文章を書くということは善意の行為だという自負がある。
しかし私にそれだけの力はあるのかと疑問も湧く。
毎夜、頭の中に言葉の啓示があり、それに従って書いているだけなのだが、
私は一体何をしようとしているか分からない時がある。

この恩学の文章は誰のために書いているのか、そして誰かの役に立っているのだろうか?

残りの人生の時を費やしても書く意味があるのだろうか?

しかし、過去の多くの哲学者は同じ悩みを持ちながらひたすら書き続けてきた。
この様な疑問を持つことは未だ修行の途中なのに未熟者が勘違いをしていることである。
今、この時を大切に生きていかなければならない。

「温故知新」過去を温めて、新しきを知る。新しきとは未来もさす意味もある。
伝統を大切にして、そこから学んだ経験を、時代に応じた形で表現をしていく。
今を大切にしなければ古きも新しきも無いのである。

東京大学の名誉教授である勝俣鎮夫先生の研究によりますと、日本語表現において、
未来のことを「アト」過去のことを「サキ」と表現する場合、「後からやる」
「後回しにする」と言った言葉は未来を表わし、「先程は」「先日は」と言った
表現は過去を表わす言葉となります。

逆に過去のことを「アト」、未来のことを「サキ」と表現することもあります。
「先送り」や「先々のことを考えて」と言うと「サキ」は未来のことで「跡をたどる」
と言うと「アト」は過去を表わす表現になるわけです。 
ところが戦国時代までは「サキ」は過去、「アト」は未来と決まっていたそうです。

現代人は未来の方向を指差す時必ず前の方向を指しますが、戦国時代は背中の方を
指差していました。江戸時代になって平和が訪れたことで人々は、
「明日も同じように暮らしていくことができる。未来は制御可能である」という
自信を得て「未来は私たちの前に広がっているのだ」という思いを持つように
なったからではないかというのです。 

明日がやってくることは、今の世では当然のことです。しかし昔の武士達にとっては
今を生きるしかなく、明日が来ることは特別なことであったわけです。
大河ドラマの中で、毎週のように人が死んでしまうことは、何も特別なことではなく、

「人が死ぬことは常」という当時の価値観なのでしょう。 

「生死事大、光陰可惜、無常迅速、時不待人」という禅の教えがあります。 

死は、いつ、どんな形でやってくるのか分からない代物です。
だからこそどう生き、どう死を捉えるのかが重要であり、まだまだと思っている間に
時間は過ぎ去ってゆく。この世は常に移り変わる、形あるものは壊れ命あるものは
尽きる。時は人を待ってはくれない 時間を無駄にせず、しっかりと生きるのだ。
ということを禅は強く諭しているのです。 

正受老人(道教慧端)の「一日暮らし」という教えを思い起こします。
 
人はとにかく一日を良く暮らせば、その日は過ぎていく。決して一日をおろそかに
してはいけない。今日の勤めを今日行うことが大切、どんなに苦しくても今日一日の
辛抱と思えば耐えることができる。どんなに調子が良いことがあっても、
それにふけることもない。長い一生と思うとかえって大事なことを見失う。

一生は今日一日、今日一日を勤める他ない。 
大事なことは今日、ただ今の心であるという教えです。
「今日限り、今日限りの命ぞと、思いて今日のつとめをぞする」(道歌)

小生、齡74になり職を離れ、次の使命が来るまで恩学を書き続けている。
誰かの役に立つ、立たないかでは無く、これが我が使命だと認識をしている。
手を挙げなければ、声を出さなければ、付き合いをしなければ、周りから自然に
人は離れる。しかし、これは孤独では無い強い意識の中の単独なのである。
禅の修行の様にたった1人の修行なのである。

誰に評価されなくても良い、誰からも褒められなくても良い、私は私なりの道を
歩むだけである。漸く、哲学者の思いが少し分かり始めてきた。

限度という器があれば溢れでてしまう行為は意味をなさない。
敵わない夢を追い求めて生活を放棄するなど言語道断である。
自分の欲を超える欲求は百害あって一利なしである。
度が過ぎると破滅の道を歩むことになる。

座右の銘「愛語よく回天の力あり」道元
「面(むかい)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくする。
面わずして、愛語を聞くは、肝に銘じ、魂に銘ず。
愛語よく回天の力あることを学すべきなり。

面と向かって優しい言葉をかけられれば、自然と顔に喜びがあふれ、心が楽しくなる。
また、人づてに優しい言葉を聞いたら、その言葉が心に刻まれ、魂がふるえる。
それは、愛語が人を愛する心から生まれ、人を愛する心が、他人を大切に思う、
心の中から芽生えてくるものだからです。

本当に、優しい言葉というのは、世界を変える力があるのだということを、
私たちはよくよく学ばなければいけません。
恩学より

デジタル社会になり人の心が無機質状態になり、感情で表現することが苦手になっています。
人間の声は大きな力を持ち、強いメッセージを伝える大切な役割を担っているのです。
我々はその声で「愛語よく回天の力を」発信していくのです。

先ずは愛語良く回天の力ありを学すべしなのである。
私は一体何をしようとしているのか?
これからこの先も「恩学」の世界を全うしたい。