ライ麦畑でつかまえて

 

JDサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」にこのような一文がある。

「未成熟なるもののしるしとは、大義にために高貴な死を求めることだ。
その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ。」

大義とは国の為に主君の為に生きる道である。
その大義が社会に出た途端に無残にも打ち砕かれてしまうのである。

そして、志を失くして妥協する事が成長なのか敗北なのかは若者には分からない。

高貴な死とは何か、卑しく生きるとは何か、その真意を追求するには時間が必要なのである。

純粋に生きようとするから悩むのであって、その汚れを知らぬ感情に死の影は
美しく写るものである。

若者が成長して沸き起こる反発は社会に対しての変化の兆しでもある。

一部の大人がそれを止める必要は無い。

高貴な死とは、精神的敗北を認めずに戦う事である。

理不尽な世の中に青二才が吠えるのだ。
頭を押さえつけられても敗北を認めず吠えるのだ。

卑しく生きるということは、精神的敗北を認め社会に順応する事である。

学生時代の青臭い精神論を遵守するより家族の為にも国家の為にも経済活動に
従事する事である。

その中で成熟したものの証として、大義を持ち続ける事が出来るかと言う事である。

サラリーマンになり、接待慣れしてお調子者になったとしても、
反逆の狼煙をあげる気概が失われないかという事である。

純粋に生きるとは弱き者の言い訳であり、正義という詭弁の代名詞である。

業欲渦巻く社会の中で、勇者の如く戦いを続けなければ人生の真理には近づけない。

熱き魂の炎を消さない為にも、時折、若き日の思索を思い出し返りみることが必要である。

すべての妥協を柔軟と捉えて、人(自分)としての志を曲げずに、
愚直に生きることも大切だと思う。

社会も大人も認めないのではなく、
互いに目をそらさずに理解しながらも対立すると言う事である。

中国の諺の中に「呉越同舟」と云うのがある。
お互いに敵同士で思想が違っていても、同じ船に乗り行き先が一緒なら辿りつくまでは
協力し合おうということである。

しかし一端船を下りれば、また相対する敵同士の関係に戻れば
良いのである。

若者が大人に媚を売る必要はない。
同時に大人が若者に調子を合わせる事も無いのである。
双方の違いを差別とするのではなく
区別してバランスを取る事が最良の解決策である。

疑問があれば疑問があったままで良いのである。
社会に対して嫌悪感を抱いても、結局はその社会に出て行くわけだし、
大人に反発しても数年すれば、自分も大人と言われる領域に入るわけである。

その年代にはその年代にあった考えがある。
理解が出来なくてもその先に必ず答えが生まれるから目を逸らしてはならない。

疑問が生じなければ成長も無いのである。

青年時代に描いた理想と現実の社会が違っても、安易に「これが世の中だ」と思わずに、
「おれはおれの生き方を貫き通す」という強靭な覚悟がなくてはならない。

その上で決して意固地にならずに、相手の意見も取り入れて柔軟に対応して
行かなければならないのである。

現代のように社会情勢が不安定な世の中では、
いつ何時災難が降りかかるかもしれない。

年齢や地位や男女差等に一切関係なく襲いかかるのである。

決して現在が大変な状況だから一切批判するな、妥協をしろと言っているのではない。

どのような時にでも自己の精神的安定を図り、
不満や疑問をぶっければよいのである。

簡単に分かったような顔はしなくて良いのである。

生きる悩みと生きて行く悩みは別である。
社会に出るまでは生きる悩みと格闘すれば良い。

しかし、社会に出た後には生きて行く悩みと、仲良く付き合わなければならない。

ライ麦畑での人助けよりも愛する妻や家族を守らなければならないのである。

「ライ麦畑でつかまえて」とは、

高校を退学になり実家のNYに帰るまでの3日間の物語である。

1945年当時のアメリカの社会、
欺瞞に満ちた大人達を非難し、制度社会を揶揄する主人公に、共感する若者が多かった。

しかし攻撃的な言動、アルコールやタバコの乱用、セックスに対する多数の言及、売春等の描写のため、
まだピューリタン的道徳感の根強い発表当時はアメリカの一部で発禁処分を受けている。