道元禅師




私の座右の銘である道元禅師(曹洞宗開祖)の言葉。
「愛語能く廻天の力ある」を学すべきなり。

私は幼き頃からずっと良き言葉、未来を誘ってくれる言葉を
探し求めていました。父親の実の姉が浄土真宗本願寺派の
女性宣教師で地位の高い人でした。
父親は自分の不遇を嘆き色々な新興宗教団体に関わり、
私はいつも連れ回されて各宗教団体の教義を強制的に学ばされていました。

少しの時期預けられた寺の住職よりいただいた言葉が記憶に残っています。
「人生わずか70年、泣いて生きるのも、笑って生きるのも、わずか70年だ!
どちらを選んで生きるのか!」と言われたのです。

僅か6歳の子供ながらも「笑って生きる」と答えたのです。

それと同時に、
「真珠は石や貝殻の破片をたくさん飲み込んで痛さに耐えて光り輝くのだ。
人間も真珠と同じようにたくさん悲しみや辛さを耐え忍べば光り輝く人とになる」
子供だったので詳しい内容までは覚えていませんが、
この言葉によって生きる勇気をもらったことは確かです。

密かに今の不幸を恨むのではなく、また誰かを恨むのでもなく、
一日も早く輝く機会が訪れることを願っていました。
自分自身が良き言葉を受け取ることも大切ですが、
良き言葉を他人に与えることは、もっと大切なことなのだ思います。

「愛語能く廻天の力ある」
このことについて大谷先生と境野先生がこのように語られていました。
参考までに記載させていただきました。

東北福祉大学学長:大谷哲夫
東洋思想家:境野勝悟

境野『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』の
現成げんじょう公案の巻に有名な次の言葉がありますでしょう。

「仏道をならふといふは、自己をならふ也なり
自己をならふといふは、自己をわするゝなり」

私は臨済の公案(禅宗で師から与えられる問題)を
すべて解いてきましたが、それまで仏道を習うとは
仏の道を学ぶことなのだと思っていました。
ところが、道元禅師はそうではない、自分自身を習うことだと
おっしゃっているんですね。これが分かるようで分からないんです。

一般的に考えれば、習うのはやはり自分の外から習うんです。
哲学書を読んだり、宗教書を読んだりすることと考えちゃうんだけど、
道元禅師はそういうものを一切忘れることだと説かれている。

そして、一番尊いものは、いま生きている素晴らしい自分の生命の
中にこそあると説かれている。このことに何よりも驚かされました。
臨済宗も曹洞宗もそれぞれに特徴があって、今日までいろいろと
勉強させていただいたわけですが、道元禅師との出会いがなかったら、
私の成長はどこかで止まっていたでしょうね。

そういえば、先ほど「最後は道元さんだよ」という
玄峰老師の言葉を紹介しましたが、公案禅を嫌っていた澤木興道老師も
愛弟子には「山本玄峰老師は本物だ」とおっしゃっていたそうです。

大谷 お互いに認め合っていらっしゃったんですね。
そういう世界があるのは素晴らしいことですね。

大谷 身心脱落とは、道元禅師の大悟の証明のような言葉です。
この言葉は要するにただ坐れ、それが修行であり身心脱落である。
焼香をしたり、礼拝をしたり、念仏を称となえたり、懺悔をしたり、
本を読んだりすることではないとおっしゃっているわけです。

別の言い方をすれば、焼香も礼拝も念仏も修懺も看経もすべて心の揺らぎを
呼び起こす。それは「只管打坐」の坐禅ではないといえます。
それが分かったのは私が『寳慶記』と出合って約10年後です。

私は『正法眼蔵』について根掘り葉掘り先生に質問しました。
そうしたら最後に「あんたのはただ読んでいるだけだ。
読んでいるだけじゃ『正法眼蔵』は分かるはずがない」。
「では、どうするんですか」と聞くと
「それはね、衣を着てお袈裟けさをかけて、
見台(けんだい)を持ってきて、そこに『正法眼蔵』を載せて三拝をして、
正座してそれから声を出して拝読するんだ」と教えてくださいました。

三か月間、毎日続けましたよ。だけど全然分からない。
癪障さわって言いました。「先生、分かりません」と。

良いですね。このような問答が出来ることに憧れを持ちます。
何もかも捨てて「心身一如」の世界へと入る。無分別で何もかも手放す。
これってとても難しいですよね。川に流されている時に師匠から
何も掴むなと言われてそのままの状態を保てるかというと無理ですね。
「百尺の竿燈まだ一歩を進まん」これ以上は前に行けませんと言っても、
その先へ行けと言われているようなものです。以上。

私は何もかも無くして人生最悪の時に「解脱・無心」になろうと
何度もトライしたのですが、頭から煩悩が離れられずに
折角のチャンスを逃がしてしまいました。

私の窮状をみかねた友人から紹介されて入った
コンピューター会社で、しばらく自分復活の計画を練っていました。
本当はこのような考えを持って会社勤めは駄目ですよね。
しかしその会社の会長さんは、私の素性を知って頂いていたので
大目に認めてくれました。

それから暫くしてコンピューターの会社の協力で
韓国に映画の配給会社を作り、韓国ドラマを日本へ紹介したのです。
またすぐ後にレコード会社の協力で中国北京に音楽事務所を立ち上げました。
急ぎ安定した生活の場を築こうとして飛び回ったので、
それなりの成果を上げることが出来ました。
特に中国での音楽会社の新人「女子十二楽坊」は大成功を収めたのです。

常に挑戦して成功を収めてきた驕りがまた出て、
ここでも人格形成のチャンスを逃してしまいました。

私にとって大きな誤算は2012年に起こった中国での反日運動です。
それまでに蓄えてきた全財産を注ぎ込み、計画してきた中国での音楽事業が、
一瞬にして終わりを迎えたのです。

流石の仏さまもこの欲に執着している男は
完全につき落とさなければ気が付かないと思われたのでしょうね。
又しても一文無しの私はその時に他人に頼らずに自力で立ち上がるのは
「下座業」をするしかないと思ったのです。

下座業とは寺に入り、下足番やトイレ掃除及び庭の掃き掃除を
毎日行うことです。いままで蔑(さげす)んできた仕事を行うことで
徐々に人間らしい人格が作られていくのです。

私は道路工事の旗を振る誘導係や高所作業の危険な
LDC照明の取り付けの仕事をしばらくしました。

その中で人格形成を行うために毎晩哲学書から仏教書、
偉人伝から成功者の本まで読み漁りました。
多くの成功者は自分と同じように悩み苦しみ、
人生の奪落者になった人がほとんどでした。
そこで国が違っても人が犯してしまう過ちは、
同じなのだという事も知りました。
とても勇気を頂いた言葉を毎日文章に残してきたのがこの「恩学」なのです。

人は過ちを何度も繰り返し成長をしていくのです。
「俺だけは特別」など無いのです。

成功して偉くなった時ほど「石橋を叩く」慎重さと、
他人を思いやる「善意・善行」が大切になります。
お釈迦さまの教え、「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」
「涅槃寂静」を学び、人間とは、人生とは、生きるとは、を取得して
自分自身の心を悔い改めなければなりません。

「愛語能く廻天の力ある」吾れ未熟者故まだまだ精進いたします。
人生まだまだこれからが本番です。