幸福の種




百も幸せの種はいらない、一つだけで幸福になれる。
それなのに何故幸福の種をたくさん持とうとしているのか?
相手に気持ちを伝えるのは数でなくて一つの真心です。
自信が無いとどうしても数で誠意を表したくなってしまう。

笑顔一つで相手は満足しているのに、
自分の心の貧しさから過剰に反応している。

手を少し引くだけでも相手は感謝しているのに、
背中でおぶるような行為を与えようとしている。

コップ一杯の水が欲しいのにバケツ一杯の水は迷惑である。
暖かい日差しが欲しいのに太陽を3〜4個持ってきても
火傷するだけで意味がない。際限なき欲望に愚かさが目立つ。

足るを知る」京都・竜安寺の「吾唯足知(われただたるをしる)」と
書かれた「つくばい」が有名です。
「つくばい」とは日本庭園の添景物のひとつで露地(茶庭)に設置される。

私達は欲望を無限にふくらましてはならない。
これで充分、つまり「ごちそうさま」と言える心のゆとりを持たねばならない。
「吾唯知足」は、釈尊が説かれた教えである。

「足ることを知る人は、心は穏やかであり、足ることを知らない人は」
心はいつも乱れている」と言われる。
心の平安を求めるのであれば、「吾唯知足」を理解しなければならない。

「貧しい人」とは何も持ってない人ではなく、多くを持ちながら、
まだまだ欲しい、と満足できない人のことです。

足るを知り強欲にならないことが大切です。問題や悩みの根本は「欲」です。
誰もが欲のない人はいませんが、自分の器に合った欲で満足するべきでしょう。

それには先ず、自分をよく見つめることです。
世の中には足るを知らない人が結構いらっしゃいます。
「知足」(たるをしる)いい言葉ですね。

千利休(せんのりきゅう)は、茶道の心得として、
「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事也」と述べました。
必要な分を必要なだけ用意し、茶を点ててまず仏に供え、人に差しあげ、
施し、最後に自分もいただく「利他」の精神がそのまま自分の幸せであるという。
「自利利他」の精神が大切です。

禅語に「蟭螟眼裏五須彌」(しょうめいがんりのごしゅみ)というのがあります。

キノコバエも最初のうちはヤキモキさせてくれたが、
最後にはどうでもよい存在になった。ごくごく微小な存在である。
そんなキノコバエよりずっと小さい蟭螟(しょうめい)とやらは、
ますます取るに足らない存在であろうが、

その目の中に、須弥山を五つ重ねたほどのものがあると
この禅語は説くのである。

月を見れば、月が目に入る。海を見れば、海が目に入る。
須弥山を見れば、須弥山が目に入る。

蟭螟も、キノコバエも、私も見ることはできる。
そして、この目はすっぽりと写しとることができるだろう。
それは見ただけ、それは中にあるとはいわない。
そういう制限を心から取り払えば、自分の存在はどこまでも大きい。
どんなものでも受け入れ可能である。

小さな島の小さな場所の小さな存在だって、
あれやこれやと思うところがある。
やれ悲し、やれ楽しと思う心が、
この世界を創り出しているのである。

という意味です。

相田みつをの言葉にこのようなものがあります。

「セトモノ」

セトモノ と
セトモノ と

ぶつかりっこすると
すぐこわれちゃう

どっちか
やわらかければ
だいじょうぶ

やわらかいこころを
もちましょう

そういうわたしは
いつもセトモノ

柔軟心(にゅうなんしん)とは、やわらかい心。
とらわれない心のことです。
凝り固まった「堅い心」の人間同士がぶつかると、そこに争いが生まれ、
お互いが壊れてしまい、苦しみの世界へと落ち込んでしまいます。

そういう時は自分の心を柔らかく持って、「ほにょん、ほにょん♪」と
まずは柔軟心で、相手の意見を受け止めましょう。
それから考えても遅くはないのです。
凝り固まって、即座に反発する必要はないのです。

こだわりや思い込みを捨て去って、少しでも、柔らかく、柔軟な心を持って
生きていきましょう。

一つで足ることを知る。
差し出す方も受け取る方もやわらかな気持ちであればそれで十分。
欲が世界を乱すのです。戦争も不正問題も欲から始まるのです。

今年はなおさら欲のない心で過ごさなければなりません。
一つでも感謝する気持ちが必要です。
ありがとうを大きな声で伝えましょう。

幸福の種はそのようなところから芽生えて来るのです。
あなたの心の植木鉢は空いていますか?
今年も幸福の種を一粒植えましょうね。