対牛弾琴
中国戦国時代(前403年~前221年)公明儀という音楽家がいました。
彼が演奏した琴の音色は多くの人の心を魅了しました。
公明儀は外で琴を弾くのが大好きです。
ある日、公明儀は琴を抱えて美しい自然の中へと行きました。
そこには人が一人もいなくて、牛一頭が草を食べていました。
そして牛に聞かせる為に沢山の曲を演奏したのですが、
それを見ていた人が「牛は音楽なんて分かるわけがないじゃないか、
いくら公明儀の素晴しい演奏でも意味が無いぞ。」と言って
笑いながら通り過ぎて行ったのです。
しかし、それでも公明儀は弾き続けました。
しかし、そのうち草を食べていた牛もうるさく感じたのか、
そっぽ向けてその場から離れて行ってしまったのです。
牛にとっては素晴しい琴の音も
耳障りな雑音としか感じなかったのでしょう。
世の中には公明儀のような人が大勢います。
相手の考えや好みを無視して一方的に自説を述べたがる人です。
PCから得た知識を自説の如く自慢する人です。
勿論、選りすぐりの情報ですから素晴しい事には間違いありません。
しかし実際の経験も無く知識だけを鵜呑みにして、
「凄いでしょう」を連発しても牛と同じ状態になってしまいます。
そのような人は必ず理解できない相手を最後には侮辱するのです。
公明儀のように成らない為には、
場所をわきまえて自分の経験だけの話をするのが良いのです。
本当の知識や本当の成功は
自慢するものでは無く他人から評価されるものだからです。
人生の広場には色々な人が集まって来ます。
良き人も悪しき人も、優しい人も危険な人も、
強欲な人も奉仕の人も、怠け者も勤勉な人も、
大勢の人が集まります。
自分の都合だけで一方的に意見を言い過ぎるのは一番愚かです。
周りの様子を見て気遣う事が重要です。
理解してくれる人には、少し近づいて本音を言います。
理解が難しい人には、少し距離を置いて建前だけにします。
少し時間が経てばこの立場が逆転する場合もあるので、
慎重にに気を付けていた方が良いと思います。
「対牛弾琴」と「馬耳東風」の意味は同じです。
牛に素晴しい琴を聞かせる事も、馬が春風に吹かれても、
何の価値もなく無駄なことですよ!と云う意味です。
そして「対牛弾琴」はもう一方で「豚に真珠」と同じように使われます。
御説ごもっともだけれど、
その高尚な知識や物が何の役にも立たないと云う時に使われます。
例えば、日照りの中で洪水の話をしても、
飢餓で苦しんでいる人に料理の話をしても、
低賃金の労働者に王様の暮らしを話しても、
原発反対者に放射能安全の話をしても、
高齢者に豊かな未来を話しても、
土足で乗り込んでくる隣人に友好の話をしても、
まさに「対牛弾琴」そのものです。意味がありません。
ひと昔前にブランド商品をこれ見よがしに見せびらかす
女の子達が大勢いました。
ヨーロッパのセレブが御愛用のシャネルに身を包み、
高級バッグを肩からぶら下げて、
得意満面の笑みを浮かべて歩いていたのです。
その子たちをシャネラーと呼び大騒ぎしていた時代です。
一般のOLも普通の女子高生も生活を切りつめたり、
いかがわしいアルバイトをしたりして買い漁ったのです。
まさに「豚に真珠」のあり様でした。
自分に価値を見つけ出せない人ほど、他人の価値に翻弄されてしまうのです。
現代ではインターネットという自然の中に出かけて、
得意の知識を長々と書きこんでいる人達が大勢います。
不特定多数の人達が読むのですから、
文章には気を付けなければなりません。
個人的攻撃や誹謗中傷や自論を他人に押し付ける事は禁止です。
読んでいる人達が不愉快に成るような文章等は言語道断です。
徒党を組んで他の団体や組織を批判することも駄目です。
偽名を使って法律違反の品物などを売り込むような文章は論外です。
最も低俗なのはいじめの為に仲間を募って書きこむ行為です。許せません。
素晴しい楽器でも演奏を間違えれば危険な騒音に成ってしまうのです。
公明儀にならない為にも慎重に判断をして下さい。