虫の声

 

何故日本人には虫の声がのどかで風流に聞こえるのか。
何故欧米人には虫の声がうるさい雑音にしか聞こえないのか。

 

人間の脳には右脳と左脳の二つに区切られた場所があります。
右脳は好き嫌い美しい醜い怖い優しいなどの情緒的な部位です。
左脳は言語・理解・数値的な判断をする論理的な部位です。

欧米人は虫の声を、情緒を司る右脳で聞いているのです。
がしかし、日本人は虫の声を、論理的な左脳で聞いているのです。

日本人の場合は、音楽、西洋楽器音、機械音は右脳で感知され、
他のものは左脳に位置づけられる。邦楽器の音も虫の声も言語も、
私たち日本人は、左脳において一緒に感知している。

 

西洋人の脳が、論理性と情緒性を明確に分別しているのに比べて、
日本人はそれをきわめて曖昧に、区別することなく、感受している。

音楽に限らず、日本のあらゆる文化は、自然との同化を目差して来たのである。
そこに培われた私たちの感受性を、卑下したりすることは全くないので、
虫の音にも、私たちは鋭敏でありつづけたい。

 

例えば万葉集の表現様式として、
寄物陳思(恋の感情を自然のものに例えて表現)
詠物歌(季節の風物を詠む)というのがあります。
この二つの様式によって虫の声は多くの歌に取り入れられているのです。

 

「草深み 蟋蟀多(さは)に鳴く 屋前(やど)の 萩見に君は何時か来まさむ」

草深い我が家の庭に、沢山の蟋蟀(こおろぎ)が鳴いています、
萩も見ごろになりました。あなたはいつ見に来てくださるのでしょう。

 

日本語の環境で育った人は、人種や民族に関わらず川のせせらぎや虫の音などの
自然界の音を言語と同じ左脳で処理するようになるが、
そうでない人は言語以外の雑音と同じ右脳で処理するのだそうです。
何故そうなるかは未だ発表されていない。

日本人は太古から自然の恩恵を受けながら自然と共に暮らしてきました。
そこに存在するすべての音も景色も「美」として捉えていたのだと思います。
もしくは「美」として論理的に捉えようとしていたのかもしれません。
それを表現するのに日本語と言う言語が生まれたのだと思います。

 

春には花が咲き散る、夏には緑の葉が生い茂り秋に枯れる、
「栄枯盛衰」の場面から沢山の文化が生まれて来ました。
日本独特の「わび・さび」も情緒では無く論理的に判断をしているのです。
この感受性は世界に誇れる感性なのです。

 

そしてとても興味を引くのは日本の楽器です。
インドや中国から入って来た琵琶や尺八や三味線が原形を残しつつ日本流に変化をした事です。
その大きな特徴は決められた楽音を鳴らすのではなく、
音と音の間を濁らす事です。所謂、ビーンという「うなり」を付け加えた事です。

それを専門用語で「さわり」と言います。

義太夫の三味線は蝉の鳴くように弾きなさいという表現もあるぐらいです。
「さわり」とは 楽器を演奏する時に楽器自体に障害装置を意図的に設けて濁りを出すのです。

また、別の表現で「さわり」とは主要な部分のみとか最初の部分とか、
切り取りの言葉としてもとして使われます。
「ちょっとさわりだけ聞かしてくれ」とか、
「ちょっとさわりの部分だけ演ってくれ」とか的に使うのです。

音楽は綺麗な単音を順番に出す事により成立します。
そして、その単音を重ねることによって和音が生まれ心地よい音楽となるのです。

しかし日本人の好みは、音と音の間の空間にこそ美しさを求めるのです。
その濁った音にこそ日本人は「わび・さび」を感じるのです。

 

それには日本人の宗教観も大きく影響していると思います。
わが国には八百万の神が存在する。八百万の神には八百万の声がある。
その声を楽器で表現する事を雅楽の楽しみとした。

そして尺八の極意は「一音成仏」一つの音で仏になるとも言われます。
読経の声や木魚や鐘にも仏様は存在するのだと思います。

我々の遺伝子の中に組み込まれた濁りの感性が左脳に反応するということです。

 

いずれにしても 世界広しと言えど虫の声を風流と感じるのは日本人だけなのです。