学びの心

 

人間力が無ければ学びは生きた学問の活学にはならない。

教えの初めに「人間力」と「志」について語り始めることが重要である。

「人間力」とは知識を見識に変え見識を胆識に取り入れる力の事である。
学問を知り経験を積んで自分の判断とする。
その判断で決断しなければならない時に胆に座った覚悟を決める。

ここに何事からも逃げない責任感が生れる。

また「志」とは自分がいかに社会に役立つ事が出来るかと言う決心である。
五常である仁・義・礼・智・信を守り通し、
「志」いう軸を強固にして社会のおける役割を明確にする事である。

この二つの精神的な強さが社会との関わり合いを教えてくれる。
志の軸がない人は目先の欲に溺れて物質優先主義になってしまうのである。

ここで江戸時代の儒学者佐藤一斉の「言志四録」を講義の手引とする。

「士は当に己に在る者を恃むべし。
動天驚地極大の事業も、亦都べて一己より締造す」

志に生きる男子は、己の中にある真の自己をたのみとすべきである。
天を動かし地を驚かすような大事業も、すべて己れ自身から造り出されるものである。

士は「+」と「-」の会意文字である。
「+」なる欲求群を「-」の志によって統括する意で、
その志によって統括された人格生活者を「士」というのである。

すなわち志に生きる男子のことである。

そういう士君子というものは、常に己の中にある一己、
良心を恃みとして生きる者である。

驚天動地の大事業もこの真の自己、「一己」が主体で成されるというのである。

戦後日本の教育から三つの教育が米国によって削除されてしまった。

それは「地理」と「歴史」と「修身」である。

日本人の基本とする強い意識を恐れて、米国はこの三つの教育を教える事を禁じた。
特に「修身」を恐れたのである。

「修身」とは中国の書物「大学」にかかれた一節である。

その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。
その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修。
その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。
その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠(まこと)す。
その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。
知を致むるは物に格(至)るに在り。

ここに米国が恐れた大和民族の心髄がある。

知識・見識・胆識を身に付け人間力を持つことである。